リハビリ開始から1週間ほどして10kg程度の重りを押して腕の力をつけていった。
その後、本稿冒頭の経緯で東京の病院に転院。
「落ち込むことはありませんでした。戻れるライブの仕事があったことと長渕さんが親身になって復帰を援護してくれたからです。その為にも自分で出来るようになるために、がむしゃらでした」とその時の心境を振り返る。
障害受容と家族の支え、信頼
また、その当時、街に出ては自分に出来ることと出来ないことを探し、出来ないことは、どのようにすれば出来るようになるかを考えた。たとえ今すぐには出来なくても、出来るまでのプロセスを考え抜くということだ。
障害を負って三浦が一番変わったことは、健常者の頃にはなかった、このようなものの見方、捉え方だった。
人は失ったものに心が捉われ、前を向けなくなったときや、社会との繋がりを絶たれた時に絶望を感じる。けれど、三浦には守るべき家族がいて、戻れる仕事と仲間たちがいた。なによりも挫けない自分がいた。
「怪我を負うと8割くらいの方は落ち込んで、外にも出たくなくなってしまうようです。あのとき僕が落ち込んでいたら、家族も苦しかったはずです。寝たきり状態で介護されるようなことがなかったので救われたのかなと思います。上が小学5年生で、下に2年生の子どもがいて、まずは生活することで精一杯でした。でも僕には仕事に戻れる自信がありましたし、そこはカミさんにも信頼してもらっていました」
パワーリフティングとの出合い
事故から2年後の2004年夏。鹿児島県の桜島で「長渕剛桜島オールナイトコンサート」が行われた際、三浦はギターテクニシャンの責任者となって1カ月間、ほとんど睡眠時間を取ることも出来ないまま、リハーサルスタジオに缶詰めとなって準備を重ねた。三浦にとって全身全霊を傾けた勝負だった。
そして当日、7万5千人ものファンを迎えた会場は熱狂のるつぼと化し、オールナイトコンサートは大成功に終わった。
「あのとき以上の苦労は2度とないだろうと思うんです。これから自分がトレーニングで鍛えていくにしても、あのライブを成功させる期間の苦しさはないでしょう。その思いが自信となって、これから何かを始めようかなと考えていた矢先に、テレビでアテネパラリンピックを見て、『こんな競技があったのか!』とパワーリフティングに目が留まりました。あの桜島のライブがあったからこそ、パワーリフティングに出合えたのだと思っています」