2022年11月27日(日)

デジタル時代の経営・安全保障学

2022年4月29日

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川口貴久 (かわぐち・たかひさ)

東京海上ディーアールビジネスリスク本部主席研究員

1985年福岡県生まれ。専門は国際政治・安全保障、リスク管理。慶應義塾大学KGRI客員所員。2010年慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了、08年横浜市立大学国際文化学部国際関係学科卒。最近の論考に「経済安全保障を考慮したガバナンス・リスクマネジメント態勢の構築」(東京海上ディーアール)、「2020年アメリカ大統領選挙と中国の影響力行使」(笹川平和財団)など。
 

「ナラティブ」をめぐる闘い

 ファクトチェックもインテリジェンス開示も基本的には「事実」を争うものだ。しかし実際には、認知戦で用いられるのは偽情報だけではなく、正確な情報(事実)や価値判断・意見も多く含まれる。

 例えば、プーチン大統領がしばしば指摘する「ロシア、ベラルーシ、ウクライナは兄弟国家」「ロシアの源流はキエフ公国」といった言説だ。これらは確かに事実かもしれないが、プーチン大統領はこうした言説をウクライナ侵攻を正当化する文脈で用いてきた。

 真偽や価値判断が織り交ざる伝播性の高い情報は「ナラティブ」と呼ばれる。ノーベル経済学賞を受賞したロバート・シラーは著書『ナラティブ経済学』(21年、東洋経済新報社)の中で、ナラティブが最も感染力を持つ(ヴァイアルである)のは、人々がナラティブやその中にある人間と個人的なつながりを感じる時だという。つまり、誰もが知る歴史や社会集団の記憶に根差すナラティブは特に拡散しやすい可能性がある。

 ファクトチェックやインテリジェンスで「ナラティブ」に対抗するには限界がある。

 ロシア側の「ナラティブ」に対抗し、ウクライナや米欧が認知領域の闘いを優位に進める第三の要因は、ロシア政府や政府系メディアの情報発信そのものを制限したことだ。

 全面侵攻以降、欧州連合(EU)はロシア政府系メディアを規制した。22年3月1日付のEU決定により、域内ではロシア政府系メディアの「RT(英語版・英国・仏・独・スペイン)」「スプートニク」の衛星放送、オンラインプラットフォーム、アプリなどでの活動が禁止された。

 ロシア政府関係者の情報発信も同様だ。ベラ・ヨウロバー欧州委員会副委員長(価値観・透明性担当)は、ロシアが「情報を兵器にしている」との認識に立ち、Google、Twitter、Meta社などのデジタルプラットフォームに対して厳格な対処を要請した。つまり、各社が利用ルールを厳格に執行し、規約違反となるような不正行為・影響工作を検知・削除することであり、特にロシア政府組織や在外高官のSNSのアカウントの情報工作への対処を促した。

 戦時ということもあり、通常の情報戦・認知戦対処よりも踏み込んだ対応といえる。

将来の東アジア有事で日本は——

 第四の要因は、ゼレンスキー大統領をはじめとするウクライナ側の対抗「ナラティブ」だ。

 ゼレンスキー大統領は自らキーウ市内から動画を投稿し、ウクライナ国民、国際社会にメッセージを発信し続けた。同大統領は米国、英国、ドイツ、カナダ、日本、イスラエルの議会でオンライン演説を行い、相手国民の感情に訴えるような言葉で語りかけた。日本向けには原発事故、サリン、復興といった日本人の琴線に触れるキーワードを散りばめた。

 これもある種の情報戦の一環であり、認知空間で優位に立とうとする闘いだ。もちろん、侵略に対抗するための情報戦もまた、自衛の一つの形態であり、否定すべきものではない。

 ウクライナや米欧が認知空間でどのように闘っているかは、日本にとって示唆に富む。対抗手段は単に偽情報対策にとどまらず、真偽や意見が混じる「ナラティブ」への対抗の側面があった。そして、軍、情報機関、メディア、デジタルプラットフォーム、政治家、研究者・専門家などが認知領域の闘いに関与した。

 将来、東アジアで有事が発生した場合、日本に対してサイバー攻撃や情報戦が仕掛けられる可能性が高い。その時、日本がウクライナほどの成果をあげられるかは分からない。

 
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 ロシアのウクライナ侵攻は長期戦の様相を呈し始め、ロシア軍による市民の虐殺も明らかになった。日本を含めた世界はロシアとの対峙を覚悟し、経済制裁をいっそう強めつつある。もはや「戦前」には戻れない。安全保障、エネルギー、経済……不可逆の変化と向き合わねばならない。これ以上、戦火を広げないために、世界は、そして日本は何をすべきなのか。
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