これは広島市と長崎市に限った話ではない。1945年3月10日の東京大空襲では約10万人もの市民が犠牲となったが、戦後、東京都が再度の大規模な空襲(ミサイル攻撃)に備えているとは思えない。
ロシアがウクライナの首都キーウにミサイルを撃ち込んでいるように、某国が日本を侵略する際には政経中枢たる東京にミサイルを撃ち込む可能性を否定できない。しかし、東京都が多くの都民を巻き込んだ本格的な防空演習を行ったことはない。
他国からの武力攻撃は防ぎ切れない
多くの日本人は、災害という災いは自然現象であり、人間が災害の発生を防ぐことはできず、いずれは発生することを前提にして対策を講じている。その一方、武力攻撃という災いは自分たちで防ぐことができると考える人々も多いかもしれない。なぜなら、原爆投下も東京大空襲も日本が戦争を始めた結果としての災いであり、日本が戦争を始めなければ防ぐことができたとの思いは、多くの日本人の心の中に根強く漂っているからだ。
したがって、広島原爆の日、長崎原爆の日、そして終戦記念日には、犠牲者への追悼と共に二度と戦争を始めないという反省が語られる。そして、日本が戦争を始めなければ武力攻撃には晒されないと思い込みが強まれば、これらの日は専ら追悼と反省に費やすべき日となり、武力攻撃に備えた訓練を行うという発想は生まれない。また、将来を担う子供たちに戦争は悪だと教える一方、防衛について教えようとはしなくなる。
もちろん、防災にも思い込みは存在した。日本の原発は事故を起こさないとする原発安全神話がその代表だ。
今やその神話は捨て去られたが、神話を信じた代償は大きい。日本が戦争を起こさなくても、日本を侵略する意志と能力のある国は日本を攻撃する。
ロシア・ウクライナ戦争は、ウクライナが始めたのではない。ロシアが不当にもウクライナを侵略しウクライナ国民に甚大な犠牲を強いているのだ。
日本人は、日本が戦争を始めなければ武力攻撃に晒されることはないとの神話から脱却し、起こり得る不当な武力攻撃への備えに取り組むべきだ。再び甚大な犠牲を被ってから神話を信じたことを悔やんでも、遅すぎるのだ。
安全保障と言えば、真っ先に「軍事」を思い浮かべる人が多いであろう。だが本来は「国を守る」という考え方で、想定し得るさまざまな脅威にいかに対峙するかを指す。日本人が長年抱いてきた「安全保障観」を、今、見つめ直してみよう。
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