2024年12月14日(土)

オトナの教養 週末の一冊

2022年9月18日

鹿児島ではなく、伊勢を聖地に

 「でも、“信教の自由”は万国公法なので、明治政府は神道国教化を諦め政教分離へと進みますね、その頃、伊勢神宮の大宮司に転出した田中は、神宮遷座を唱えていたのに急に少宮司浦田長民と神官聖地化に取り組み、伊勢神宮を“国家の宗廟”に押し上げてしまった?」

 「そうなりますね。田中は鹿児島は聖地化できなかったけれど、伊勢を聖地に変えたんです」

 かつての伊勢は、内宮(天照大神)より農業神の外宮(豊受大神)が重んじられる庶民の歓楽地だった。ところが、内宮は最大限格上げされ、妓楼は消え、風格ある施設や国家につながる年中行事も次々新設されて、以前とまるで違う「聖都」へと生まれ変わったのだ。

 鹿児島では1870(明治3)年に皇軍神社が創建され「国に尽くして死ねば神となる」神道が作られたが、伊勢神宮における皇祖・天照大神の宗廟化は、先祖崇拝と皇祖崇拝を結びつける国家神道の土台となった。

 「ただ、田中は変わり身が早いですね? 廃仏毀釈に熱心かと思えば神代三陵に執着し、神道国教化が行き詰まりになると関心の薄かった伊勢神宮の大改革を図ったり?」

 「彼は権力に魅了された人じゃないかと思いますね。新たな権力を得るたびに、権力を利用して社会の仕組みをかえるのが快かったのでは」

 田中は父親の罪により苦難の少年時代を送ったが、学問好きで頭脳明晰。国学者として久光に抜擢され出世の階段を駈け登った。

 「田中頼庸という人は、明治前半にたびたび名前が出てくるんですが、鹿児島でも余り注目されてこなかった。けれど宗教行政史上ではきわめて大きい存在です。この機会に、どなたか田中の本格的な評伝を書いていただけるといいんですが……」

島津久光の実像

 もう一人のキーパーソン、久光はどうか?

 「私、執筆当初は島津久光が嫌いだったんですよ。彼のせいで鹿児島から寺院が一つ残らず消え、極端な復古神道の土地になってしまった、と。けれどある日、そうじゃないと思い直しました。神代三陵にしても、田中などが久光に忖度してやったことで、久光自身は少しも願っていなかった。久光は合理的教養人で、神々の陵墓など信じなかったのではないかと思います」

 久光は若い頃から、異母兄だった薩摩藩主・島津斉彬も一目置くほどの学究肌だった。

 関心の的は「正しい日本の歴史」である。

 幕末のころから水戸藩『大日本史』の再編集や校正に力を注いだが、1876(明治9)年以降は官撰国史『六国史』を継ぐ国史の編纂に独力で取り組み、『通俗国史 正編(全22冊)』『同 続編(全11冊)』などを書き上げた。

 窪さんが注目したのは、そんな久光が晩年、薩摩・大隅・日向の名所旧跡を記した天保時代の『三国名勝図絵』の校正を行ったことだ。

 「その本には、明治の廃仏毀釈で破壊された鹿児島県の寺院のことが詳しく載っているんです。ということは、血気にはやって行った廃仏毀釈を、晩年になって久光は反省していたのではないか、と思うんですね」

 晩年、時代遅れを自嘲するかのように「玩古道人」と号した久光は、急進派ではなく、穏当な保守主義者になっていたのだ。

 「久光の人生を追って行くうちに、次第に好感を抱き始め、書き終えた頃にはすごく好きな人物になっていました」

 歴史の転換期を身をもって体験した久光は1887(明治20)年に71歳で没した。久光の国葬で斎主を務めたのは、当時、伊勢神宮の流れを汲む神宮教管長の田中頼庸だった。


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