習近平氏が過酷極まりない新疆政策を立ち上げたのも、鄧小平・江沢民・胡錦濤といった人々によって敷かれてきた、少数民族との対話を拒んだ愛国主義と「社会の安定」のレールに沿っている。
そして今回の党大会政治報告では、これまでの少数民族統治の基本枠組みである「民族区域自治」への言及が消えた。
もちろん、中国は共産党が指導する事実上の一党独裁国家であり、日本など自由な民主主義国における地方自治と「民族区域自治」は全くの別物である。しかし毛沢東時代、党の指導が個別の少数民族地域の実情と乖離していたことこそ民族問題悪化の原因となったことから、改革開放が始まると、80年代前半の胡耀邦総書記のもと、少数民族の社会・経済・文化への配慮や、少数民族幹部の登用による政治参加を促進することを柱とした民族区域自治法が制定され、党・国家と少数民族の関係が束の間改善されたのは確かである。
しかし胡錦濤時代以降強まった少数民族への締め付けは、やがて少数民族のアイデンティティの根幹にある言語や宗教にも及んだ。習近平政権は、単に新疆で過酷な政治をするだけでなく、そもそも民族区域自治を少数民族の独自性の根源とみなして冷淡になり、その代わりに「中華民族意識の鋳牢(読んで字の如し、溶かして叩き丈夫にすること)」を以て少数民族政策の根幹とするようになった。
第20回党大会の結果、少数民族に残されているのは、自らの宗教や文化を共産党の指導や中国の主流社会と適合的な方向に「中国化」させる選択しかない。それが如何に、多様性を重んじながら統合を図ろうとする世界の潮流と背反していても、習近平政権は全く意に介さない。
ゼロコロナ問題と新疆問題の教訓
したがって今や外界としては、中国で今後何が起こりうるかを、外界の「常識」に基づく期待、あるいは「いくら何でもそのような選択や手法は極端だから採らないだろう」という臆断で語るべきではない。
習近平政権は、外国の影響と異論を敵視し、思想の集中と統一こそが発展と富強のために欠かせないと考え、その通りに行動している。しかもその結果引き起こされる損害に対して責任を取ろうとしないばかりか、西側など外部勢力こそ問題だと切り捨てて憚らない。
この手の問題がいま最も顕著に現れているのが、台湾問題・香港問題といわゆる「動態清零(ダイナミック・ゼロコロナ)」の問題、そして新疆問題である (台湾問題については、拙稿「北京台北高速鉄道という危機 台湾統一に本気で動く中国」を、香港問題については拙稿「周庭氏らに下った実刑判決 日本よ、それでも中国を信じるのか」をご覧頂きたい)。
「動態清零」をめぐって、今回次期首相に抜擢されて党内序列2位となった李強氏は、上海市政のトップとして上海ロックダウンの大惨事を招き、中国の社会と経済の先行きに深刻な懸念をもたらした張本人である。そのような人物が副首相等の中央の要職を経験せずして大躍進的な昇進を遂げた事実は、外界の常識や基準では説明がつかない。
「米国のウイルス」に対する全人民的な闘いを習近平氏が自ら指導して「生命至上・人民至上」を実現したのであり、医療資源が不足する途上国としての中国で死者数を抑えるためには「動態清零」しか有効な手立てがない以上、誰が何と言おうとこの政策を貫徹すべきだ、というのが習近平氏の論理である。李強氏は、その通りに上海ロックダウンを断行し、感染者数を減らしたからこそ評価されたと言える。