2024年11月22日(金)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2022年10月26日

分派と多様性は正しい支配の敵

 このような聖人君子の支配において、思想の源泉・権威の所在はただ一つだけあれば良い。

 福澤諭吉は、文明の進歩による個人と国家の独立は、思想と権威が分散され、人々が束縛なく多様に考え競うことによってはじめて実現すると説き、聖人君子が権力と権威を独占する皇帝専制を「支那の神政府」と糾弾し、その思想的な基礎にある儒学思想と訣別した(『文明論之概略』)。この裏を返すと、全力で正しい聖人君子の支配を掲げる側からみれば、分派や多様性こそ甚だ都合が悪い。

 今回の中共中央人事は、この発想の現代における再現である。

 毛沢東時代においてすら、中共党内にはさまざまな思想があり、集団化のユートピアを描く毛沢東と、現実主義的な経済建設を考える劉少奇・鄧小平らの溝は、凄惨な奪権闘争である文化大革命を引き起こし、中国全体を混乱の極みに陥れた。

 その反省から中共は、改革開放時代において集団指導体制をとり、個人崇拝を打破して「実事求是」の精神を尊んだ。結果中国では、「国家の分裂」「中共体制の否定」「日本軍国主義・帝国主義の肯定」「社会の安定への危害」に及ばない限り、基本的に何を言ってもお構いなしという時代が続いた。勿論、1989年には民主化運動を六四天安門事件が起きたし、その後も曖昧な基準による恣意的な弾圧も起きたものの、党内にも社会にも多様性と活力がみなぎり、中国は高度成長した。

 しかし習近平氏と、彼のブレーンである王滬寧氏はこの事実を履き違え、単に十数億人の多様な営みの果実を習近平氏の正しい指導の功績に収斂させようとしただけでなく、分派の可能性を敵視・警戒している。そこで今回矢面に立たされたのが、革命元老世代の血縁的な後ろ盾を持たず、自身の努力によって立身出世を果たした共産主義青年団(共青団。党員予備軍のエリート青年組織)系の人々である。彼らは今回、李克強首相以下ことごとく党中央常務委員会の7人から外され、次世代のリーダーとして嘱望されてきた胡春華氏に至っては政治局員入りすら果たせなかった。

 共青団出身者の象徴である胡錦濤氏の退場は、「思想の解放・多様な議論によって特徴づけられる改革開放の時代は終わった」「習近平こそが史上かつてない完全な指導者として君臨し、習近平新時代が始まった」ことを満天下に示し、共青団系の人々の面子を潰す狙いがあったはずである。それを考案したのは恐らく、胡錦濤氏をかばう栗戦書氏の背広の裾を叩くなり引くなりした王滬寧氏ではないか。

 あるいは、人事や方針をめぐって習近平と共青団系のあいだに最後の最後までわだかまりが残り、最後に「従わない者の運命として胡錦濤を見せしめにする」ということになったのかも知れない。胡錦濤から肩を叩かれた共青団系の弟分にあたる李克強氏ほか、壇上の誰も胡錦濤氏を労って後ろを振り向かなかったことも、その可能性を匂わせる。

胡錦濤氏も同罪……「中国化」少数民族政策の過酷

 しかし、そこで退場させられた胡錦濤氏を悲劇の老人とみるべきではない。何故なら、胡錦濤氏こそ、今日の中国の局面をつくることに加担した張本人であり、同情に値しないからである。

 胡錦濤氏はもともと、甘粛省・黄河上流部にある劉家峡ダム建設現場での技師時代を皮切りに、たたき上げの実務家として評価を獲得していた。1980年代後半、チベット・ラサで独立運動が起こると、鄧小平氏は胡氏をチベット自治区書記に引き上げ、胡氏は戒厳令による鎮圧の功によって党中央入りを果たした。

 胡錦濤氏がチベットで振るった、独立などの異論を「分裂主義」として厳しく弾圧する手法、ならびに「社会の安定」により経済発展が実現すればさまざまな格差が解消・緩和されて民族問題が解決され、「中華民族」の大団結が図られるという論理は、その後の少数民族政策の中で一貫して繰り返されてきた。2008年のチベット独立運動、そして09年の新疆における騒乱を、一切の異論も許さず鎮圧したのも胡錦濤政権に他ならない。


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