<食事中、三輪田のもとに3回の電話があり、2回は従業員が呼びに来た。1回は井箟(球団代表)からのもので、何だったと聞く山本に、三輪田は、徳元の両親たちとの同席を配慮したのか、詳しい内容は話さなかった>(同書57頁)。三輪田にかかった残る2本の電話は、誰から、どんな内容だったのか。謎のまま残された。
新垣との最初の対面が予定されていた27日、三輪田は朝食後の午前10時半ごろ、宿泊しているホテルのフロントに「部屋でちょっと休むから、掃除は昼の1時ごろにしてほしい」と電話連絡したのを最後に連絡が取れなくなった。午後1時50分ごろ、高層マンションの住民から「ドスンと大きな音がして屋上から人が落ちた」と110番通報があり、死亡が確認された。
〝教訓〟は生かされているのか
著者の六車は、三輪田が亡くなった当時、毎日新聞の論説委員として社説や連載コラムを執筆していた。突然の悲報にショックを受けた六車氏は、三輪田に何が起きていたのか、仕事の合間を縫ってオリックス球団はじめ球界関係者や、事件を処理した沖縄の警察担当者らを訪ね歩き、事件から4年後に本にまとめた。
最愛の家族を残したまま、死を選ばなければならないほど、三輪田を追い詰めたのは何だったのか。その答えは同書からは見えてこないが、ドラフトをめぐり、常軌を逸した「裏金」が動くなど、さまざまな「闇」に迫り、記録に残したいというジャーナリストの執念が底流に流れている。
三輪田の事件から24年。ドラフト制度そのものは、さまざまな改革がすすめられてきた。98年当時の「逆指名」の制度は、2004年にアマチュア選手への「栄養費」などの名目で不明朗な資金が渡されていたことが表面化し、3球団のオーナーが辞任する事態に発展したため消滅。08年からは現在の制度に定着した。
ルールは変わっても、優秀な選手を獲得したいプロ球団の思いは変わらず、今後も手を変え品を変え、さまざまな形で「抜け駆け」を試みる球団は後を絶たないだろう。だが、国民に夢を与える華やかな舞台の陰で、命を絶つ不幸な人を生み出してはならないのは言うまでもない。三輪田事件の貴重な教訓はドラフト制度が続く限り、後世に伝えていかなければならない。