いま、社会保障給付総額の自然増加に合わせて社会保障負担を増やすとなると、45年時点の現役世代の一人当たりの負担は1.10×1.35=1.48倍となる。一方、現役世代の負担能力に合わせて社会保障給付を削減するとなると、45年時点の高齢世代の一人当たりの給付は0.74÷1.10=0.67倍となる。
以上から、今現役世代であるわたしたちが高齢者になった時、今の高齢者と同じ社会保障の給付水準が享受できるためには、その時の現役世代に今の現役世代の1.48倍もの負担増をお願いしなければならない。今の現役世代でも生活にゆとりがないのだから、これではその時の現役世代はとてもではないが生活できないだろう。とすれば、45年に高齢世代となったわたしたちが給付をあきらめるほかなく、この場合、現在の高齢世代より0.67倍、つまり33%給付水準が落ち込む。
つまり、「どうせそのうち、お前たちも高齢者になるのだから、社会保障を削減せず我慢して負担しろ」との主張は、意地悪な見方をすれば、今自分たちが受け取っている潤沢な社会保障給付を手放したくはないので、ありもしない将来を夢見させることで現役世代をだまし、なんとか当座を乗り切ろうという魂胆から発せられるものでしかない。
ただし、この試算では、重要な仮定があり、それは経済はゼロ成長であるとのものであった。もし、経済が成長するならば、その分、賃金も増えるはずなので、現役世代の負担能力も上がるはずだ。
そこで、現役世代人口の減少を補うために必要な賃金の年平均上昇率を求めると、1.5%となった。現実の実質賃金上昇率を見ると、1%を超えた年は2011年以降なく、現実的とは言えない。
このように、これから高齢者になり、元々人生の後半に集中する社会保障給付の大部分を受け取ることになる世代は、現在の高齢世代が享受する社会保障の水準には遠く及ばない。逆に、今の社会保障水準を維持しようと思えば、その時の現役世代に現在以上の労苦を与えることになってしまう。これは持続的ではないのは明らかだ。
45年には社会保障制度のメリット消失の懸念
次に、「高齢世代向けの社会保障を削減すればかえって子供たちの負担が増えるだけ」という主張はどうだろうか。社会保障はしばしば世代間の扶け合いとされる。働けなくなったり病気がちなった高齢者を若くて元気な現役世代が扶けるという趣旨だろう。
国民皆保険・皆年金、介護保険制度などの社会保障制度が整備される以前は、日本でも高齢者の面倒は家族が担っていた。それを高度成長期を経験する中で核家族が増え、高齢者の面倒を見る若者が少なくなったので、国が営む社会保険で高齢者の面倒を見るようになった。
つまり、「高齢世代向けの社会保障を削減すれば、親の面倒を見なければならない子供たちの負担がかえって増えるだけ」という主張が成り立つためには、家族で高齢者の面倒を見るよりも社会で面倒を見る方が低コストで済むという前提が必要だ。