そこで最初に企画を任されたのが、「兵庫県日本画壇回顧」という展覧会。でも、最初はピンと来なかったですね。そもそも兵庫県とは縁もゆかりもなかったし、そこで生まれた日本画家たちのことを調べろと言われても途方に暮れるばかりで、それを少し広げて考えると、日本の美術のことを何も知らなかったなと。言い換えれば、自分たちの足下を見ないで、遠い西洋のこと(美術)ばかりを見てきたなと感じたのです。
この頃から日本、しかも勤務先が近代美術館を名乗っていたこともあって、必然的に“日本の近代”を考えざるを得なくなった。そうしたときに出会った本が、『髙橋由一油画史料』(青木茂編・中央公論美術出版)です。
私の関心が日本に向いたちょうど同じ80年代に、“日本の近代美術”を考えていこうという人たちの集まりが自発的に形成され、やがて「明治美術学会」という形になります。そのなかで一番重要な画家として認識されていたのが、「鮭」や「花魁」などの作品で知られる髙橋由一。この本は、その髙橋由一が書き遺した文章を、明治美術学会の会員でもある青木茂さん(現・文星芸術大学客員教授)が編者となって翻刻した書ですが、最初はそこに綴られた言葉がまったく理解できませんでした。
というのは、それまでの美術の本というのは、やはり作品を見せるもの、あるいは作品の解説書ですよね。そこに、この本が提示されたときに、これは一体何なんだと――。言ってみればこれは、幕末から明治にかけて日本の美術をある意味で引っ張った人物の足跡なのですが、逆に言うと、そういうものに対する理解がほとんどないまま、日本の近代美術が綴られてきたなという印象を持ちました。そこに、ものすごく異質な画家自身の生の声がボーンと提示されたという感覚で、衝撃的でしたね。
結局、美術史なんて言っても、それはある人がつくった地図に過ぎないわけで、その地図から外れているものが出てきたときには、理解できないということになる。この本は、そういうところに目を向けていこうという一つのきっかけになったと思います。
――木下先生は「美術」の枠組みからこぼれ落ちた多様な文化事象を研究テーマにされていますが、その最初のステップというイメージでしょうか。
木下氏:次のステップは、学芸員になってちょうど10年目の1990年です。この年に兵庫県立近代美術館開館20周年記念の展覧会の企画を任されました。幸運にも私の提案が全部通って、それまでに考えてきたことを集大成した展覧会「日本美術の19世紀展」を開くことができました。これでひとつの問題提起をして、幸い前述の高階先生などからも、高く評価していただきました。そしてこの展覧会の内容をもとに、1993年に出したのが初めての著書『美術という見世物』(平凡社、現在講談社学術文庫)です。