2024年11月22日(金)

オトナの教養 週末の一冊

2023年1月27日

『日本インテリジェンス史―旧日本軍から公安、内調、NSCまで』(中公新書)

 こうした時勢を受けて、49年春頃に設置されたのがZ機関で、日本国内で反共的な秘密工作を行うようになった。さらにZ機関の長だった米陸軍中佐のジャック・キャノンから米CIAのような政治指導者直属の情報機関の設置を薦められたこともあり、「日本版CIA」調査室が設置される。

 しかしこうした動きがありながら、当時のインテリジェンス・コミュニティ構想は他国並みには発展しなかった。なぜなら組織が各省出身者の「寄り合い所帯」であり、官庁間の争いが先鋭化していたためである。その後、「日本版CIA」調査室は内閣調査室(内調)となり、内閣のための情報組織という色彩が強くなる。

浮き彫りになる根本的な問題

 そうした中で冷戦期は日本がサンフランシスコ講和会議で独立し、防衛庁・自衛隊が発足して再軍備を果たすと、警察がインテリジェンスの中心になっていく。ソ連を始めとする共産圏の情報収集やソ連から帰国してくる引揚者の聞き取りなどを行い、他省庁との情報共有も行うようになる。しかし、秘密保護法制やスパイ防止法などは整備がなされないままで、旧ソ連のスパイが日本で情報戦を展開するなど、重要な情報が流出する結果を招いている。

 76年9月の旧ソ連の戦闘機「ミグ25」が北海道の函館空港に強行着陸し、パイロットのヴィクトル・ベレンコ中尉が米国に亡命する事件が起きる。一定の年代以上の人の中には「ベレンコ中尉亡命事件」として記憶している人も多いだろう。当初は地元の北海道警が対応を行い、本来すぐに対応すべき航空自衛隊が関与するのは後になってからである。著者はこう指摘する。

 ベレンコ事件は警察が国内事件として処理していた。日本における対外情報機関の空白と、軍事情報の領域を警察がカバーするという特殊性を際立たせるものになった。

 その後、83年9月に起きた大韓航空機撃墜事件の際にも、日本側が通信傍受を行い、その内容を米国側に提供したにもかかわらず米国側が主導して発表し、しかもそれが発表のわずか1時間前に伝達されるという日本の立場をないがしろにされるような事例も起きている。これについて著者はこう分析する。

 冷戦期における日本のインテリジェンスの根本的な問題は、日米同盟の下で日本が独自の外交・安全保障政策をとる必要性がなかったことと、さらに構造的な問題として日本のインテリジェンス・コミュニティが米国の安全保障政策に組み込まれていたことである。冷戦期の日本のインテリジェンスは、米国の下請けとして機能してきたといえる。

 さらにこうも指摘する。

 冷戦期の日本のインテリジェンス・コミュニティは、他国のように、恒常的に政治指導者の政治判断に有益な情報を提供できていなかった。また政治指導者の側もインテリジェンスにあまり期待していなかったのではないだろうか。その根本的な原因はやはり内調の規模や権限があまりにも限定されており、有益な情報活動が行えなかったことだろう。 

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