収益化と環境保全のともに確立させた吉野林業
吉野林業の本場といえば、奈良県吉野郡川上村である。植林された杉と桧を中心とした林相が整然と連なっている。山で見苦しいのは山崩れ地であり無残に伐採された跡地だが、ここではそれらは皆無といってよい。
植林後、70年や80年経っているのはざらで、100年生以上の人工林も珍しくない。中には、200年生、250年生のものもある。それらは、神々しいばかりの雰囲気を持つ。
かつて、1ヘクタール(ha)に1万本(密植)もの苗木を植え(普通は3000本)、下刈り、除伐、枝打ちなどを行い、さらに間伐を繰り返してここまで育ててきたのである。植えてから、こまめに手を入れ続けた人工林は、経済的に価値が高いだけでなく、そこから流れでる水も清烈だし、下草も生えているため土壌の流出も少ない。
「密植・多間伐・長伐期」と表現される吉野の集約的林業技術は、すばらしい環境・美しい景観を作り出すと同時に高い経済的価値を実現させる世界に誇る人工林育成技術なのである。吉野の人工林施業体系は、まさに世界一といって過言ではない。
江戸時代後期には吉野林業は完成していたのだが、それまでには多くのプロセスがあった。
1)「尽山」化の進展に加えて1657年の江戸明暦大火により、幕府は豪壮華麗で桧の大径木を使用する「書院造」を禁止した。その結果、簡素で平屋かつ小間連続型で桧を使わない「数寄屋造り」(桂離宮が嚆矢)へと住宅建築様式が一変したのである。その結果、「数寄屋造り」のために小径木需要(特に杉)が新たに大量に発生してくることになった。
2)天然林が比較的遅くまで温存された吉野地方においても、17世紀に入ると木材が活発に伐出された。天然木を流送するために、17世紀に吉野川の浚渫工事が実施され、筏(いかだ)の流送路が確保された。これにより小径木流送も可能となった。
3)焼畑で生計を立てていた吉野山村民は短伐期で小径木の商品化を目的として焼畑跡地に杉・桧の植林を開始した。
4)1720~30年頃、吉野において杉の大径木(おそらく天然杉)から酒樽の生産が始まった。それには、杉の80年生から100年生の大径木が適木であった。8代将軍吉宗が米の消費拡大のため、酒造を奨励した結果、神戸の灘で水力を使用した大量生産型の酒造が始まった。その酒を樽に詰めて江戸へ送ることになる。
吉宗の頃は20万樽といわれていたが、幕末には100万樽を超えたという。山元で加工された樽丸(樽の原料)は筏の上荷として吉野川を下った。短伐期で始まった吉野林業が、長伐期化する契機となったのが、樽丸生産であった。
このように吉野地方は、小径木から大径木まであらゆる木材をすべて商品化できる仕組みを作ることにより、「吉野山中からは金銀が湧いて出てくる」といわれたほどたいへん「儲かる」仕組みを確立していた。しかも、それが美林でもあり、環境的機能もきわめて高いものなのであった。
このような吉野林業は、幕末頃から明治期にかけてその名声を全国に知られることになった。
先にみたように1897年の森林法が、林業という産業の振興を通じて環境機能も同時に発揮させるという考え方に立脚した根拠には吉野林業の経験があるというのが筆者の見方である。
なお、吉野林業の経験でも分かるとおり、経済と環境の両立ということを実現するためには、その前提として、森林生態系に関する深い理解、自然力に対する深い理解、人間の関わりの最良方法の模索とその限度の自覚、といったことが必要なのである。
経済的果実を追求するためには、対象とする生態系を良好な状態で持続的に維持されていることが前提となる。関わる人間にはきわめて高いレベルの経営力と技術力が要求される。この両立は奇跡ともいえる。