ネット上で互いに「意見だけ」をぶつけ合うと、自分と異なる見解は不快なものにしか感じられず、排除したくなりがちだ。しかし対面の場で、相手の話し方や表情にも接すれば、「敵意は感じないし、信頼できる人ではあるな」といった形で、とりあえずその主張も最後まで聞くことができる。
「意見は異なるが、一目置ける人」を持つことは、個人の人生を豊かにするだけでなく、社会的にも重要だ。同調圧力で一つの主張だけに「正解」を絞ってしまうと、それが失敗した際の代案がなくなってしまう。
異なる意見を絶えず残しておく寛容さは、社会が丸ごと失敗しないためのセーフティーネットでもあるのだ。
「なぜこれをするのか」
意味への説明と配慮を
2020年から3年超に及んだ新型コロナウイルス禍は、失敗の典型例だ。「社会活動を自粛して感染者数を減らす」という選択肢だけが「正しい意見」として固定され、日本は最も非常事態からの脱却が遅い国になった。
憂慮すべきは、対策の無効性が徐々に明らかになるにつれて、政治家や専門家が「もともと有効ではないと思っていた」などと公言する例が多かったことだ。彼らは国民に命令することには熱心でも、自らの指示には「いかなる意味があるのか」を説明し、合意を求める意欲も能力も欠いている。
たとえ自分が不利益を被る行為でも、「こうした意味があるのだ」と納得することで、人は異なる立場の相手にも協力できるようになる。そうした「意味で人を動かす力」を磨くことは、低成長時代のリーダーにこそ重要だ。
高度成長期には「働くほど儲かり、豊かな暮らしができる」という形で、意味が自動的に供給されたが、もはや国家も企業もそうした環境にはない。だからこそ自覚的に、誰もが「今、意味があることをしている」と感じられる目標を、練り上げる必要がある。
そのプロセスを抜きにして、特定の目標(感染者数の低減)を既成事実のように扱い、達成に向けた「スピード感」や「効率性」ばかりを追求しても、不満と分断しか生まれないというのが、コロナ禍から学ぶべき教訓である。
世の中を一気に変えることはできず、速効性ばかりを求めると「動かしやすい数的指標を操作しよう」といった本末転倒に陥る。むしろ分断を乗り越える上で必要なのは、緩やかでも「確実に意味のあることをしている」と感じられる変化を起こすことだ。
異なる意見を受け入れ、他の人を安心させようとする限りで、誰の日常にもそのきっかけは必ずある。
(聞き手/構成・編集部 大城慶吾、野川隆輝)