先日驚いたのだが、今はカウンターで相互の会話も含めて楽しむ「赤ちょうちん」の店でも、イヤホン付きでスマホを眺めたまま飲食し、一切周囲と交流しない客がいる。互いに「心の垣根」を下げてリラックスするはずだった場所でも、他者の存在を「自分の世界」に入れたくないわけだ。
素性を名乗らずとも他人と語り合え、受け入れてもらえる都市部の飲食店は、高度成長期には「匿名化」ゆえの安心感を、相互監視の厳しい農村からの上京者に教えた。インターネットも、当初はそれを引き継ぐ場所に見えたが、SNS以降は逆転している。
自分の世界を壊したくないので、プロフィールに自らの立場を全て書き、「違う人とは議論しません」と一行添える。諸外国の宗教原理主義とは別の形態でも、ユーザーの一人ひとりが偏狭かつ攻撃的になっている点では、いわば「ソロ原理主義」だ。著名な言論人が「私と友達でいたいなら、私と対立する識者のフォローは外せ」と要求して回る例まである。
前近代から清浄で均質的な空間に慣れ、「異物に出会わずに過ごせた」がゆえの素朴さを養ってきた日本人は、逆に「異物を視界に入れないためなら何でもやる」存在に育ってしまった。いまや欧米人以上に自我ばかりが強い、超・個人主義者同士がいがみ合っているのが、日本の分断の実像である。
ネガティブさの居場所
自覚的につくる必要
日本の分断のコアにあるのは「人間はだいたいみな同じ存在で、話せばわかり合える」とする安心感の喪失だ。だから、それを克服するための処方箋は、「自分だけが排除されることはない」と確認できる居場所や人間関係を、新たに構築してゆくことである。
気をつけたいのは、そこが「ヘン」で「ネガティブ」な存在、社会にとってのノイズも受け入れる場に育たなければ、意味がないということだ。キラキラした成功者ばかりを集めて「こんなに多様です」などと誇っても、それは最初から異物を排除するがゆえに「クリーン」な空間を、もう一つつくり出しているだけに過ぎない。
新宿・歌舞伎町に終日たむろする「トー横キッズ」が話題になるが、彼らが集うのは「ネガティブなままの自分」を受け入れてくれる空間が他にないからだ。犯罪行為を実況する反社会的なユーチューバーに、かえって追っかけやファンがつく理由も同じである。
私自身、かつて重度のうつの最中に「自分はまったく無価値で、社会にいる必要のない人間だ」と思い込む体験をした。そこから回復する過程には、分断の処方箋のヒントもあると思う。
鍵になるのは「対面性」だ。療養中に通ったリワークデイケアには、うつで悩んでいるという共通点以外には、全てがバラバラで多様な利用者がいた。しかし、病気にならなければ一生知り合わなかったかもしれない人たちと、同じ場所で過ごす中で「現にお互い、話が通じた」経験が、自分はもう一度社会に戻れる(排除されない)はずだとする安心感につながった。
「心の垣根」が上がり過ぎている現在の日本では、見知らぬ人に話しかけること自体がリスクだと感じられて、こうした体験をすることが難しい。しかし、例えば集合住宅に「座っていれば、他の住民が話しかけてくる」ロビースペースを設けるだけでも、近い効果は発揮できるはずだと思う。
「同じ場所にいる」という理由だけで、それ以外になんの共通点がない人とも「話が通じる」体験ができるのが、対面性の効用だ。もう一つ重要なのは、対面の場合はオンラインと異なり、必ず相手の「人となり」に触れながら、その意見を聞くことができる点だ。