つまり、見殺しにしようということだ。とんでもない話であり、両親はそれに猛反対して、自宅に連れて帰った。命は救われたが、障害が残った。2歳の時には、脳性小児麻痺で「一生起立不能」とも診断された。
その後もさまざまな葛藤があったが、幸い、弟は小学校に入る前には歩けるまで成長した。嬉しかった。
弟が小学2年生になった時のことである。急に「運動会に出たい」と言い出した。私は「そんなもん走れるか。笑いものにされるだけや」と反対した。だが、弟は「出たい」の一点張り。当日、弟は50メートル走に出場した。
案の定、よろけるばかりで、私は「恥ずかしい。みっともない」と思ったが、弟の顔を見た時、自分の目を疑った。笑っていたのだ。しかも、満面の笑みを浮かべて、全力で前へ前へと進もうとしている。「弟のため」を思って、出ないようにしていた自分が恥ずかしかった。一番冷たかったのは、自分かもしれない、自分が周囲から笑われたくなかったからだけなのかもしれない。反省させられる出来事だった。
こうしたさまざまな経験をしてきたこともあり、私は、「冷たい社会をやさしい社会に変えること」を人生最大の目標として、ひた走ってきた。
誰もがいつかは「少数派」になる。予期せぬことで、突然「少数派」になることだってある。
だが、誰かを排除する社会とは、自分が「少数派」になれば排除される社会でもある。だからこそ私は、自分がマイノリティーだと感じた時、生きづらさを覚える「冷たい社会」ではなく、「やさしい社会」を実現したいと、心の底からずっと思ってきた。
「今の3対1」から
「本来のあるべき3対1」へ
どのような社会にしたいかという理想像は人によって違うのが当然である。大事なことは、より良い社会にするためには、国であれ、地方であれ、まず、政治家が大方針を示し、その実現に向けて公務員がやりがいを持って、生き生きと働けるようにすることである。
マスコミの役割も大きい。放っておくと権力は必ず肥大化するからだ。だからこそ、マスコミは権力を監視して、政策に問題があれば叱咤し、良い効果があれば激励して伸ばしていくことが求められる。これらは私たちの社会を健全な形で運営していくための基本中の基本である。これはいったい、誰のためにあるのかといえば、すべては「国民」のためである。
だが、その「国民」をあまりにも蔑ろにしているのが今の日本であり、今の政治家である。最近は、改善されるどころか、ますますひどくなっている。こうした状況の中で、「霞が関」についても昨今、政策立案・遂行能力が低下しているとの報道も目立つようになった。事実、私もそう感じている。
しかし、これは、官僚だけが悪いという問題ではない。政治やマスコミにだって大いに問題があるからだ。
今の日本に真の政治家はほとんどいない。いるのは選挙屋ばかりである。この国を立て直したいと、本気で、覚悟を持って取り組んでいる政治家はなかなか見当たらない。日本社会の変革を諦めてしまっている国民も多い。
根が深い問題だ。根本には「政治家」「官僚」「国民」「マスコミ」という4つの関係性が本来のあるべき姿から大幅に乖離していることが大きい。