「病室に見ず知らずの3人が入ってきたのですが、すぐに、母子の祖父母とご主人であることが分かりました。
祖母は『子どもたちは苦しんだのでしょうか。3人目の孫はどんな顔をしていたのでしょうか』、ご主人は『妻は何か言い残したことはなかったのでしょうか』と、何度も何度も同じことを質問されました。祖父は泣くばかりで、何も言えない様子でした。母親と離れるのをあんなに嫌がっていた長男を連れて逃げたのに亡くなってしまったなんて。それなら、最後まで母親と一緒の方が良かったのではないかと考えたり……。思い出すと本当に今でも辛いです」
辛いという字に一を足せば幸せに
3カ月後に退院したが、その後も声が出にくい状況が続き、思い描いていた教師になる夢は諦めざるを得なかった。
「今までの勉強は何だったんだろう」「自分は何をしていけばいいんだろう」「もう、死んでもいい」……。
悶々とした日々を過ごす中、しつけに厳しかった父親がある時、手紙をくれた。そこにはこう書かれていた。
〈いつまでそうしているんだ。子どもを助けきれなかったことが辛いなら、これからの人生は恩返ししていくべきではないか。「辛い」という字に一を足せば「幸せ」になる。声が出なくても自分だけの一を足して幸せになれば必ず社会に恩返しできる〉
しっかり生きよう――。中島会長は生まれ変わった。
「11月8日の誕生日になると、思い出すんです。あの時5歳だった子ももう、50代。もし生きていたら人生も終盤で、幸せな人生を送っているのかなぁ、と。今でも、小さな手をぎゅっと握って、あの子を抱きかかえたまま窓から飛び降りたことを思い出すと、しっかり生きないといけないと思うんです。人生は一回しかない。生きていること自体、尊い。私は4人分を生きているから、経営者になって、会長になったからといって、のんびりしているわけにはいかないんです」
対談中、中島会長は「人の大切さ」「人の素晴らしさ」「人材教育の重要性」を繰り返し訴えていた。壮絶な体験と、困難を生きる力に変え、自立した人生を歩んできたからこその言葉だ。その揺るぎない経営哲学は井村屋の中にしっかりと刻み込まれている。