私は、京都で植物染料により日本古来の色彩を再現することをなりわいとしているから、古典の詩歌に親しむときでも、どうしても色の名前が詠われているものに眼がいって、その歌の意を追うことになってしまう。とりわけ高貴な色である紫を詠んだ歌は興味深い。
韓人(からひと)の衣染むといふ紫の
心に染みて思ほゆるかも
(巻四─五六九)
─韓の人が衣を染める紫のように、あなたのことが心に染みて忘れがたいものです─
この『万葉集』の一首は、大伴旅人(おおとものたびと)が赴任していた大宰府から都へ召還されることになって、配下の役人たちが送別の歌として詠んだうちの一首だという。旅人は正三位の地位にあり、当時三位以上の役人は紫色の礼服を着用していた。
万葉の時代には、染織技術は日本においてすでに高い水準に達していた。ただ、右の歌を詠むと、紫という高貴な彩(いろど)りは、韓人、すなわち渡来人の技術者が染めていたようにも受け取れる。くわえて、その歌を詠んだ地は九州大宰府の近くであった。
奈良東大寺の正倉院に収蔵されている『正倉院文書』には、いまの大分県の旧豊後国あたりに紫草園、すなわち紫の染料となる紫草の栽培園があり、そこで採れた紫の染料は、大宰府へ租税として納められたと記されている。
一首の歌と古文書が、そのおりの染織の状況や、その素材の流通まで結びつけてくれるのである。
紫は灰(はひ)さすものぞ海石榴市(つばいち)の
八十(やそ)の衢(ちまた)に逢へる子や誰
(巻一二─三一〇一)
─紫染では椿の灰をくわえるものだという。その海石榴市(椿の市)の八方に通じる広場で出逢ったあなたは誰なのだろう─
この歌はまさしく紫染の技法を詠っているのである。
いまから十年ほどまえ、私は大分県竹田市の方から一通の手紙をいただいた。奈良時代の文書とおりに近くの畑に紫草を植えてみたらよく育ったので、見にきてほしいとある。紫草は脆弱な植物で、栽培はよほど慎重でないといけない。私はなにはともあれ、竹田市へむかった。そこには見事な紫草が生育していたのである。染色を試みたところ麗しい彩りとなった。『万葉集』におさめられた紫の歌は、いまも変わらず生きているのである。
■「WEDGE Infinity」のメルマガを受け取る(=isMedia会員登録)
週に一度、「最新記事」や「編集部のおすすめ記事」等、旬な情報をお届けいたします。