日米双方の議員たちがきたんなく交わした発言内容を深夜にかけて二人で一緒にテープを起こし、他紙の追随を許さない朝刊見開き2ページの紙面を翌日飾った時の達成感は今でも忘れられない。
さらに、ワシントンへの帰りの飛行機の中で、こんな自らの信念も披露した。
「日本の政治家は保守一辺倒ではだめだ。つねに世界に目を開いていなければならない。有能な政治家であればあるほど、目まぐるしく動く国際情勢を肌で感じておく必要がある」。今にして思えば、当人はすでにそのころから、わが国のあるべき立ち位置として、“井の中の蛙”ではなく、『世界の中の日本』を強く意識していたのだ。
退任直後のゴルバチョフ氏を招致
翌年、筆者は東京本社に戻り正式に記者人生をスタートして以来、長年にわたり、個人的に教えを請い、指導をあおぐ幸運に浴してきた。とりとめもない雑談もあったが、おもに国際情勢についての意見交換が多かった。取材のテーマや企画などについて適切な助言もしばしばもらった。
1991年12月25日、ソ連のゴルバチョフ大統領が保守派のクーデターにより、突如解任という衝撃的ニュースが編集局に飛び込んできた。
すぐに報告のため社長室に駆け込み、新聞社としての今後の対応などについてあれこれ意見を交わした。その中で飛び出したのが、退任直後のゴルバチョフ氏を読売新聞独自で早急に日本に招聘するという突拍子もない企画案だった。
社長は、招聘のタイミング、必要経費なども含め、社挙げての計画としてその場で決断を下し、翌日には、筆者はロシア通の先輩記者と二人で交渉のためモスクワへと向かった。
数日待たされた後、年末の混乱の最中にゴルバチョフ夫妻には快く迎え入れてもらい、訪日提案への基本的合意を得たが、「日本にいくなら、まだ見たこともない美しい桜の咲くころにしたい」との夫人のたっての要望もあり、実現したのは翌年4月のことだった。
東京、大阪、広島での大々的講演旅行に先立ち、本社貴賓室で行われた渡辺社長、水上健也会長との独占会談でゴルバチョフ氏は、ソ連共産主義の硬直化した旧体制に対する糾弾、自身が主導してきた「ペレストロイカ」(改革)「グラスノスチ」(情報公開)の重要性について長時間にわたり熱弁をふるった。
当時の西側諸国のどのメディアも思いつかなかったこの企画が実現した際に、不遇な状況に追い込まれた傑出した人物に対する渡辺氏のあたたかい人間主義がいかんなく発揮されたことを痛感させられた。
この点に関連して、本人も昨年3回にわたり放映されたNHK特別番組「独占告白 渡辺恒雄 戦後政治はこう作られた」の中で、新聞記者が取材対象の政治家たちに食い込む際の心得として「(指導権争いなどで)不幸な立場に陥った人を大切にし、こちらから手を差し伸べることも必要だ」との思いやり精神を吐露している。