女性歌人の秀歌も歴史の中に取り込む
本書の「おわりに」で髙良さんは、短歌史は男性中心のエリート歌人の歴史、としている。しかし本書では、女性歌人の秀歌も歴史の中に取り込もうとした、と。
―― 本書の特色の一つは、女歌論の変遷を取り上げたことですね。
「明治・大正期の女性歌人を、本当はもっと選びたかったんですが、私自身が面白いと思える和歌、歌人が少ないんですね。戦前はずーっとそう言えるかも知れません」
―― やはり、女性の生理や感性を基盤に置いた作品が多すぎる? 結婚、妻、出産、母、介護など女性の人生における社会的役割にとらわれてしまうから?
「ええ。男性歌人なら難なく中立的に歌を詠めますが、女性歌人はそうは行かない。“女性ならでは”の視点を常に求められ、それに応えようとすると自由に飛び立てない」
髙良さんによると、女性歌人の整理や感性を重視する傾向は50年代まで根強く、制約が薄れ始めたのは85年の男女雇用機会均等法の制定以降のことだという。
「近年はだいぶ薄れてきましたが性に基づく表現の違いそのものは、これからも何らかの形で残って行くのではないだろうか、と思いますね」
―― さて、髙良さんの一番好きな歌人ですけど、テン世代の内山晶太を挙げてますね。“この世に歌人は内山晶太以外いらない”と。代表作に、〈口内炎は夜はなひらきはつあきの鏡のなかのくちびるめくる〉があります。
「できた口内炎を確かめるだけの歌です。だけど言い方一つで詩的になる。短歌に慣れてくると、激しい感情の歌よりも、何気ない言い方の妙の方が面白く感じられるんです」
―― 彼のこと、“詩情の演出にきわめてたけた歌人”と評しています。しかし、採用したのは2首のみで、多くはないですね?
「私個人は好きな歌人なんですが、彼の作品で短歌論争が起きたわけではありませんから、無理して増やしませんでした」
日本では、短詩型の文学表現に、短歌の他に俳句と詩がある。新聞などでも定期的に投稿欄が掲載される。だが、3つのうち短歌(和歌)は、1300年以上前の『万葉集』に代表されるように歴史がもっとも古く、中世・近世でも盛んに詠まれ、今日も結社や個人の歌集出版が相次いでいて、その隆盛ぶりに衰える気配がない。
―― なぜ短歌は、ゼロ世代やテン世代でも新たな歌人が出現し続けているのでしょう。なぜ、詩や俳句よりも人気があるのですか?
「まずは、五・七・五・七・七の定型があることです。枠のない詩は、表現の達成感が得にくい。季語のある俳句も、感情の発露に難がある。結局、ストレートに感情を表出するには、ある程度の長さの型があり季語も必要ない短歌の方が、向いているんですね。型が、心の“整流器”となっていて、いつの時代でも抒情を包み込んでくれる、私はそんなふうに感じています」
本書の最後の方には、再度「女歌論」が掲載されており、女性の典型的ライフステージに沿った表現を何とか回避しようとする、テン世代とそれ以降の作品が並んでいる。
うちいくつかを無作為に抽出してみた。
〈わたくしが持てばどんなあなたも銃身であるから脚をからませて抱く〉
―野口あや子
〈・と・に創造(つくり)たまへりーと聞きしかどそのいずれにも遭ひしことなし〉
―川野芽生
〈「おれ」になるかな「あたし」かな認知症発症後のわたくしの人称>
―仲西森奈
