2025年12月5日(金)

革新するASEAN

2025年7月14日

2-1. プライスギャップの解消とディール・ストラクチャーに関する初期交渉

 買収交渉において頻出する論点が、売り手と買い手の間にあるプライスギャップである。売り手は、将来の成長可能性や業界全体のトレンドを織り込んだ価格を期待しがちである一方、買い手は現状の実績とリスク要因を重視しがちであり、評価の前提にズレが生じることは自然な現象である。企業価値算定には様々な手法があるが、プレ・ディールの段階では、DCF法(Discounted Cash Flow法)に依拠することが不可欠である。

 DCF法は、企業の将来のキャッシュフローを予測し、それを適切な割引率で現在価値に割り引いて合計することで、企業の事業価値を評価する手法のことだ。DCFの活用により、類似の上場企業の株価や、類似業種におけるM&A事例など、現在の市場トレンドや特定のM&A事例の個別事情を排除して、対象会社の事業計画に基づいた評価を行うことができるのである。

 しかし、M&Aの交渉においてしばしば直面するのは、売り手が提示する事業計画が「実現不可能な希望的観測」や「楽観的な想定」に基づいているケースが多いということだ。このような過剰な期待が盛り込まれた事業計画を基に算定された企業価値は、往々にして現実離れした高額な値となってしまう。このプライスギャップを埋めるためには、買い手側が提供できるリソース(技術、ネットワーク、資金など)を用いて、競争環境の中でいかに着実に事業計画を実現していくかを、売り手側と共同で描くことが鍵となる。単に売り手の計画を否定するのではなく、買い手として貢献できる具体的な道筋を示すことが重要であり、この過程でも買い手・売り手双方の信頼を築くことが肝要なのである。

 ASEAN地域では、法外な希望価格に固執するあまり、「売り物」として長らく市場に放置されている案件が散見される 。売り手は「価格さえ良ければ売る」というスタンスを構えているが、その希望価格が企業の真の実力や他のM&A事例と比較して非現実的であるケースである。これは、売り手が自身への「ご褒美」として、簿価純資産(PB)の2倍や3倍といった根拠のないプレミアムを設定していることが原因である。理詰めで、かつ誠意をもって交渉を進めてもなお、このようなプライスギャップが埋まらない場合は、その案件から戦略的な撤退を行うポイントを見極める必要がある。その際は、Deal Intelligenceフェーズに戻り、次のターゲットとの間でM&A発生の蓋然性を再設計するという、冷静な判断が求められるのである。

2-2. ディール・ストラクチャーに関する初期交渉

 ディール・ストラクチャーとは、端的に言えば「どちらが過半数の株式を取得するか」、つまり経営の主導権を握るかという議論である。事業計画上のシナジーが相互に確認できたとしても、この主導権に関するイシューは非常にセンシティブな問題と言える。欧米や中国の企業が買収に際して100%取得を目指すことが多いのに対し、日系企業はマイノリティ投資に対しても柔軟な姿勢を示す傾向がある。これは、日系企業が売り手にとって「Dealがしやすい相手」となり得る要因の一つで、M&Aにおいては特筆事項と言える。最初はマイノリティ(少数株主)として関係を築き、後にマジョリティ(過半数株主)へと移行する選択肢も考えられる。

 プライスギャップが大きい場合には、アーンアウト条項(Earn-out Clause)をディール・ストラクチャーに組み込むことが有効な「合わせ技」となる。アーンアウト条項とは、M&Aの買収価格の一部を、買収後の対象会社の将来の業績(売上高、利益、特定の事業目標の達成など)に連動させて支払う契約で、主に以下の状況で活用される。

  • バリュエーション(Valuation)ギャップの解消=売り手と買い手の間で、対象会社の将来の成長性に対する評価に大きな隔たりがある場合。特に、将来の不確実性が高いベンチャー企業や特定の技術を持つ企業の買収でよく用いられる。
  •  売主のインセンティブ維持=買収後も創業経営者などが対象会社に残り、経営に携わる場合、彼らが引き続き企業の成長にコミットするインセンティブとなる。
  • 買主のリスク軽減=将来の業績が不確実な部分に対する支払いを後回しにすることで、買収価格が高くなりすぎるリスクを軽減できる。

 マジョリティ・マイノリティの問題は、結局その事業の最終責任を誰が負うかという問題と裏腹である。スクラッチから創業した売り手へのレスペクトをベースとしながらも、激しい競争環境の中で互いにどういうリソースを出し合って事業を共創していくかを議論していくことで、事業における全てのステークホルダー(顧客、従業員、取引先、そして自分たち株主)への最終責任を果たすのはどちらが相応しいかは、自ずと見えてくるものである。


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