さらに、45年2月のヤルタ会談で、ソ連が対日戦に加われば南樺太を「返還し」、千島列島を「引き渡す」こともローズヴェルト米国大統領は約束する。
終戦を急ぐ米国と、決断の遅い日本。漁夫の利を収めたのがソ連だ。ソ連はドイツを無条件降伏に追い込んだ3カ月後に、まだ有効だった日ソ中立条約を破棄して日本へ宣戦布告する。これはヤルタ会談で約束した対日参戦の期日にかなうものだった。
だが、それだけではない。米国が唯一の核兵器の保有国になったことでソ連の軍事力に頼る必要が薄まり、ヤルタでの秘密協定を米国が守るか雲行きが怪しくなったことも背景にある。ならば、ヤルタで約束された利権を実力で確保しようと、日本がポツダム宣言の受諾を表明して降伏してからも、ソ連軍は南樺太や千島列島で進撃を続けることになる。
南樺太の人口は、開戦前に41万人を超えていた。ここでの本格的な戦闘は、45年8月11日に北緯50度線上の国境で始まる。国境で激戦が続く間に、西海岸ではソ連軍が奇襲上陸作戦をしかけ、多数の民間人が犠牲となった。被害を拡大させたのは、ソ連軍の無差別爆撃や艦砲射撃である。
南樺太と千島列島のみならず
北海道占領まで狙ったソ連
南樺太の戦争で悲劇の象徴として語り継がれているのが、真岡郵便局で起きた事件だ。45年8月20日、ソ連軍が西海岸の真岡(同・ホルムスク)の港に上陸した。ソ連軍が郵便局に迫ると、電話交換手の女性たちは集団自決し、9人が亡くなる。この事件を映画化した『氷雪の門』は74年に公開されたが、ソ連側が上映中止を求めたことでも知られる。美談になりがちな事件だが、彼女たちが最後まで職務を放棄できなかった時代背景も考えるべきだろう。
米軍は玉音放送が流れた8月15日正午に前後して日本への空襲を止める。しかし、ソ連軍は日米からの再三の停戦要求を無視した。これに対し、日本軍も「自衛戦争」を掲げて戦闘を継続した。それが可能だったのは、東京の大本営が即時停戦と武装解除をただちには命じなかったからだ。だが、停戦交渉に即座には応じなかったソ連側の責任も重い。
結局、南樺太で停戦がまとまるのは8月22日となる。
※こちらの記事の全文は「終わらなかった戦争 サハリン、日ソ戦争が 戦後の日本に残したこと 戦後80年特別企画・後編」で見ることができます。
