2025年12月5日(金)

Wedge OPINION

2025年9月29日

 しかし、23年2月の「事故」は、台湾有事とそれに関連した海底ケーブルの物理的な防護への関心が高まっている中での切断だったため、いつも以上に注目を集めた。短期間に2度にわたって切れ、いずれも中国がかかわる船によるものだったため、中国が海底ケーブル切断時の台湾の対応を見定めるためのテストをしたのでは、という見方が根強い。

 台湾政府の関係者は事態を憂慮している。23年の「事故」の後、マイクロ波の通信回線を増強するとともに、米国のスターリンク社が提供している低軌道の人工衛星など、バックアップの通信サービスを複数入れることも検討している。海底ケーブルをもう1本増設する計画も進む。

 台湾の海底ケーブルの状況は、島国である日本も他人事ではない。そもそも現代の情報社会は海底ケーブルに依存していると言っても全く過言ではない。

 400本、500本ともいわれる海底ケーブルが世界の海の底に敷設されている。日本のような島国は、その国際通信の99%を海底ケーブルに依存している。

 残りの1%で使われる人工衛星は、費用がかさむ上に十分な回線容量を確保しにくい。マイクロ波による通信は2つのアンテナが直線上につながらないといけないため、高い位置にアンテナを置かざるを得ず、それでも通信距離は限られる。太平洋や大西洋を越える長距離を高速でつなぐためには海底ケーブルが不可欠だ。

世界で高まる情報の価値
戦争の勝利の切り札にも

 世界初の海底ケーブルが1850年に英仏海峡に敷設された後、大英帝国は帝国統治と貿易促進のために海底ケーブルを活用した。植民地の反乱の情報をいち早くロンドンが把握したり、物資を運ぶ貨物船がどこの港に入ると良いかを把握したりするため、無線電信とともに海底ケーブルは重要な役割を果たした。92年の時点で大英帝国系の海底ケーブルは世界の66.3%を占めていたというデータもある。

 日本に最初に電信技術を持ち込んだのは、54年に黒船で再来日したマシュー・ペリー提督である。それは陸上で使われる電信装置だったが、幕府を驚かせるには十分だった。71年に長崎に最初の海底ケーブルが陸揚げされている。

 長崎から上海、長崎からウラジオストクにほぼ同時にデンマークの大北電信によって海底ケーブルが敷設され、長崎から先は大英帝国の海底ケーブル網につながった。ウラジオストクから先はロシアの陸線につながり、二方向でヨーロッパと電信による通信ができるようになった。

 その後、明治政府は大北電信と結んでしまった差別的な条約に苦しむが、それでも自らの帝国統治のために海底ケーブルのネットワークを広げていく。根室から延びたケーブルは北方領土の国後島とつながった。稚内から延びたケーブルは樺太とつながった。

 鎌倉から延びたケーブルは小笠原を経由してグアムへ、鹿児島から延びたケーブルは沖縄本島を経て、石垣島、そして台湾の淡水へとつながった。朝鮮半島の釜山にも海底ケーブルは延びた。

石垣島の海底ケーブル陸揚庫跡。1897年に沖縄本島、石垣島、台湾が結ばれた(MOTOHIRO TSUCHIYA)

 世界各国は競って国内・国際海底ケーブルを敷設した。しかし、1914年に第一次世界大戦が始まると、大英帝国は戦略的な場所を選んでケーブルを切断した。英国はドイツに宣戦布告すると、数時間後の夜のうちに北海に船を出し、ドイツのケーブルを切断した。

 第二次世界大戦では、日本が各地に延ばした海底ケーブルも、戦況の悪化とともに次々と使えなくなった。「電信屋」と呼ばれた石垣島の海底ケーブル陸揚庫は、連合国軍の攻撃目標にされた。今でも残るその建物には銃撃の痕が残っている。


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