(1)「他人事」ゆえに「たまたま目に付いた、あるいはチェリーピッキング的に切り取られた断片的イメージや先入観」、ときにセンセーショナルな偽・誤情報や印象操作に惑わされ、「嘘ではない」と安易に絶対化して「理解・納得」してしまう。
(2)「他人事」ゆえに当事者の「自己責任」のように自身の思考や関与から切り離すことで「安心」が得られる。
(3)「他人事」ゆえに「安心」を揺るがす当事者の努力や成果、より正確な情報に積極的に関心を寄せるインセンティブが無い。
これらに対し、「事実、他人なのだから他人事なのは当然だろう。何が悪い」との心境も理解はできる。しかし、「安全地帯」にいる一人ひとりのこれらを無批判に正当化すれば、新型コロナパンデミック時のような「不安の空気」の不羈奔放(ふきほんぽう)な拡散と温存の正当化、それに伴う偏見差別が地域全体にまで連鎖しかねない。
挙句、同じ「安全地帯」の別の人達からは「クマを殺すな」「クマの代わりにお前が死ね!!」の大合唱である。
(クマの駆除があったことに対し)「動物保護の為に、将来の子ども達の為に熊さんがいなくなることがないようにしたいです。子育てママ達団結して青森、秋田、岩手の農産品不買運動を立ち上げましょう!」などと呼びかける声もあった。
「絶望」こそが人の命を奪う
もはや「熊」は一部地域の生態リスクではなく、社会全体に浸透する「不安の空気」の象徴となりつつある。かつての「放射能」や「感染症」に似て、見えざる恐怖が地域を再び覆い始めている。
「苦難にある当事者を見棄てる」かのようなメッセージが増えるほど、地方は「正面のクマ」による直接的な被害に加え、背後からは経済的な被害のみならず住民のメンタルヘルスにも深刻な追い討ちを受けることになる。
災害などの非常時には、「絶望」こそが人の命を奪う。これは、筆者自身が東日本大震災・原子力災害における被災者の一人として痛感してきた教訓である。
「安全地帯」に暮らす多数派が不都合な現実から目を背け続けるため、地方に暮らすマイノリティへ全ての代償を押し付け続けるべきなのか。それでも飛び込んできた眼前の現実に対しては、「被害者への寄り添い」を掲げて議論を避けて視界から消し、「恐怖を『他人事』として安全に消費できる非対称性」が回復することをただ待つのが最善なのか──。
この構図は、社会学で言う「NIMBY」(必要かも知れないが私の裏庭には持ってくるな)の様相を呈している。他地域に比べ相対的には少ないとしても同じくクマ被害問題を抱え、さらに原子力災害の除染で生じた土を安全処理して福島県外で再生利用する「復興再生土」問題までも抱える福島県民としては、「他人事」には全くなれない。
