2025年12月7日(日)

Wedge REPORT

2025年10月31日

「不安の空気」と「正しさ」の軋轢を超えて

 「不安の空気」が厄介なのは、それが誰にでも「正しさ」の衣をまとって現れることだ。「安全を守れ」「命を軽視するな」「動物を殺すな」、そのどれにも一理ある。しかしそれぞれの「正しさ」が衝突したとき、コミュニケーションは途端に硬直し、「語り合う」ことそのものが失われる。

 表現を止めるか、貫くかという単純な二択を超えて、「どう話し合うか」「どう違いを許容するか」「真に優先されるべきリスクは何か」が本来問われるべき課題だ。

 ここで求められるのは、各自の「正しさ」を競い断罪することではない。延期という判断を「表現の自由の棄損」「自主規制の悪しき前例」だけに矮小化し批判することも、「被害者配慮の美談」「エンタメの純粋性」と擁護することも、問題の解像度を粗くしてしまう。複雑な立場が交差し対立する社会において、「正しさ」同士の軋轢をいかに乗り越えるかが問われている。

(映画「ヒグマ!!」公式サイトより)

 映画とは、現実の反映であると同時に、現実を語り直す装置でもある。だからこそ、その「沈黙」や「延期」の意味、飛び交う「正しさ」一つひとつもまた、私たちの社会を映している。たとえば今回の問題には、以下の様々な『正しさ』が交錯している。

・ 表現の自由:映画を公開する権利

・ 被害者配慮:現実の痛みへの敬意

・ 商業判断:安全な興行維持

・ 地域住民の生存権:駆除の必要性

・ 動物愛護:殺処分反対

・ 地域経済:観光回復の切実さ

 『ヒグマ!!』上映延期をめぐる一連の反応や議論は、これら以外にも様々な反応や意見があるだろう。これらは作品そのものの是非のみに留まらず、私たちが「正しさ」とどう向き合う社会であるかを静かに試しているとも言えるのではないか。

 「不安の空気」が人々の思考を停止させ、当事者への想像力を奪う時、そこに生まれるのは「風評加害」である。恐怖や正義の名のもとに誰かを遠ざける構造は、放射能、感染症、そしてクマの問題に至るまで、形を変えて繰り返されてきた。

 姿を消した『ヒグマ!!』がスクリーンに戻る時、あるいは永遠に戻らなかった時、私たちはその結末をただ見届ける「他人事」の観客ではいられない。

 現実に向き合う勇気を取り戻せるかどうか──。その答えを試されているのは、作品以上に、むしろ私たち社会の側だろう。

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