「日常における生者と死者の距離の近さ」
日本文化の根底にあるのは、「日常における生者と死者の距離の近さ」だと八雲は考えた。神仏習合や淫祠邪教などの雑多な信仰もそうだが、鮮やかなのは盆行事である。
―― 盆踊りや精霊舟がそうですね。八雲は初めて盆踊りを目にした時、“想像を絶した、何か夢幻の世界にいるような踊り”と記しています。精霊舟にしても、死者をあの世に送り返す“不思議な別れの儀式”だ、と。
「盂蘭盆の間、亡くなった祖先が戻ってくるという仏教行事ですが、八雲はその間の盆踊りや精霊舟に仏教以前の神代から続く祈りを見ていますね。盆踊りは生者が帰ってきた死者と共に踊る、だから神々しく、夢幻です。藁(わら)の舟に食べ物や灯明を乗せ海に流す精霊舟も、長く美しい歴史を感じさせます」
盆踊りや精霊舟などは派手なところのない地味な行事だ。従って「柳田など後の民俗学者らは見逃してした」と畑中さんは言う。
「盆踊りなどに民俗的重要性を覚えたのは大正時代に入ってからですね。目立たない行事にも民族学者が目を向け始めた。でも、彼らよりずっと早く八雲は気付いていた」
なぜ八雲は、外国人なのに「見えない日本」を見ることができたのか。
「2歳から十数年間、キリスト教以前の精霊信仰や古代神話が息づくケルト系のアイルランドで育ち、乳母から昔話などを聞いています。母の国ギリシャも古代の物語は豊富。そして八雲自身、少年時代に家に住みつく女の幽霊につきまとわれたりと、神秘体験があります。マルティニーク島で収集した怪異な話や民間伝承の影響も大きいはず」
「日本民俗学の父」柳田国男は、対象への民俗的アプローチの仕方を①旅人の学 ②寄寓者の学 ③同郷者の学と3つに分類した。外国人の日本滞在記などはほとんど①の段階で、たまに②がある程度だが、民俗学者の畑中さんによると、八雲の著作は②が常態で、しばしば「心意感覚に訴えてはじめて理解できる」③の境地にまで達している、とのこと。
―― 畑中さんは本書の最後に、“飴を買う女”の話を挙げ、八雲こそ“死と再生をもたらす存在だった”と述べていますね。
「毎晩水飴を買いにくる女の後をつけると、墓に女の亡骸(なきがら)があり傍らで墓の中で生まれた赤ん坊が泣いていた。これは八雲が松江で採集した怪異譚ですが、民俗学上は“赤子塚”と呼ばれる伝承で、柳田は“子捨ての塚=子拾いの塚”と読み解いています。実際、“飴を買う女”は生まれ変わりの話です」
日本人にとって生と死は背中合わせであり、死はまた生へとつながって行くのだ。
40歳で八雲が来日した明治23(1890)年、欧州では民俗学はまだ黎明期だった。日本で「民俗学」の名称が登場するのは、八雲が54歳で死去してから9年後の大正2(1913)年のこと。民間伝承や民間信仰にこそ民族の心性が宿ると気付いていた小泉八雲は、一人だけ早く登場した、民俗学の先駆者だったのだろう。
