なぜこのような演出がなされ、炎上したのか。参考になるのは、ジョナサン・ゴットシャルが『ストーリーが世界を滅ぼす』(東洋経済新報社)で説いた、物語が持つ強力な感染力である。
メディアが「わかりやすい物語」を提供した時、受容者側もまた、その物語に沿って現実を解釈しようとする。こうした物語が感情を喚起するほど注目を集め、必然的に視聴率にも繋がる。視聴者は提供された映像などの断片的情報から「不憫な被害者(長男)」と「無責任な加害者(親)」という二項対立的な物語を瞬時に再構築した。
しかしながら、実在する家族はコンテンツとして使い捨てられるべき架空の物語の登場人物ではない。実際には機能していた「演出の外側の事実」にあった家族の役割が、物語の整合性を乱すノイズとして切り捨てられていった。その過程には、現代的な情報の受容の危うさが潜んでいる。
「家族の責任」をめぐるリアリティの断絶
本論に入るにあたり、先に筆者の個人的な経験も提示したい。筆者は高校生時代、病気の父の介助から家事までを担った他ならぬヤングケアラー経験者でもある。父は筆者が高校生になってほどなく悪性の脳腫瘍で倒れ、筆者が高校卒業する少し前に他界した。
父は難易度の高い手術で命は取り留めたものの、脳機能を大きく失い認知症にも似た状況になった。父の入院には母が泊りがけで付き添い、筆者は大人不在の自宅で幼い弟と2人で暮らした。
学校帰りにスーパーで食料品や生活用品を買って帰り、料理を作り、掃除や後片付けをした。弟の勉強をみてやったりもした。
父はその後に退院したが、寝たきりにも近い状態になった。身長177センチメートル(cm)ある大男の介護は小柄な母だけでは困難で、当然筆者も積極的に手伝った。まともな会話が成り立たない父の食事の世話や失禁の後始末もした。挙句に父から心無い暴言も度々受けたが、病気のせいと割り切った。
やがて父は脳腫瘍が再発し入退院を繰り返した。その生活の中で、やがて母も体調を崩し入院した。筆者はそういう環境で高校生時代のおよそ3年間を過ごした。
そうした経験から言えるのは、家庭内のケアと役割分担には、外部からは計り知れない切実な事情と、多義的な意味が含まれているということだ。
たとえば小学6年生に家事を担わせることの是非一つとっても、児童の権利という普遍的な原則と各家庭の置かれた複雑な事情の狭間で、常に揺れ動く問題である。家庭内での家事などの役割分担は、子供に負担を強いる一方で自立と責任感、技術を育む発達上の意義を持つ場合もある。仮に筆者が料理や掃除、裁縫といった家事技能の経験が無いまま父が倒れていたならば、家庭の問題はより深刻になっていたことだろう。
