ただし、それが学業や休息の権利を著しく損なう「ケアの過負荷」となれば、それは児童虐待にも通じる明確な社会的問題となる。この問題は、その境界線が「量」や「質」、そして「各家庭の事情」という極めて主観的で個別的な要素に依存している点に注意しなければならない。一つの目安として、ヤングケアラー問題として支援が必要になるのは、たとえば次のような兆候が重なる場合だ。
・学業や睡眠に明確な支障が出ている
・ケアが一時的ではなく、慢性的に継続している
・家庭内で役割が固定化し、本人が断れない
・本人の年齢に比して、責任や負荷が過大である
重要なのは「家事をしているか否か」ではなく、子どもの生活と権利が守られているかである。
「正しさ」の暴走という二次災害
また、この騒動で最も注目すべきは、SNSにおける「正しさ」の行使がもたらした、当事者家族への影響である。番組に応募した少年の本意はどこにあったのか、普段からの親との関係性や仕事量はどのようなものだったのか。数十分の放送、あるいはその後の断片的なSNS情報だけで、その境界線を断定することは本来的には出来ない。
ところが、ヤングケアラー問題の解決を願う人々の「善意」は、SNSというプラットフォームを通じて急激に熱を帯びた。一方で、その「やさしさ」「正しさ」は時に極めて近視眼的で、排他的な側面を持つ。少年を「救う」という名目で、彼の所属する家族という拠り所を攻撃しようとする行為。それは本当に少年にとっての幸福や問題解決に資するものなのだったのか。
両親に対して「親の資格がない」といった言葉が投げつけられ、取材対象の家族が強い心理的圧迫に晒される構図が生まれた。こうした状況は、当事者の生活や安全に直結する二次被害を招きかねない。
しかも、今や番組側が過剰な「演出」があったことを弁明しており、家族を「正しく」批判したはずの声の論拠は根底から正当性が崩されてしまった。一連の騒動の後に、何の価値が残されたと言えるのだろうか。
現代社会は「あるべき理想像」を画一的に設定し、そこから外れたものを「正しくない」と糾弾する傾向を強めているようにも見える。しかしながら、病気、障害、多子、経済的困窮など、家族が抱える「易しくない」事情は多様である。その複雑さを捨象し、外形的な「やさしさ」の基準だけで「白か黒か」を「易しく」迫る「正しさ」は、問題解決に資するどころかむしろ新たな抑圧と解決困難化のリスクを内在している。
SNSの投稿者一人ひとりは、スマートフォンから「正義の鉄槌」を振るうことに、ほとんどコストを払わない。何の責任も取らない。しかし、その「やさしい」正義を一身にぶつけられる側、実在する存在に与えるダメージは計り知れない。
その一方で、本来は最も直視されるべきヤングケアラーを支える実効的な「支援」の現状という「面倒な」現実からは目が逸らされている。現場の支援員たちは限られたリソースで日々疲弊し、資金も人材も慢性的に不足している。SNSで「たまたま目に入った」ケースを糾弾する熱量のうち、どれほどの人が本気で実際の政策や予算の確保、あるいは地域の具体的な支援活動への関心に向けただろうか。
