第三に、産業構造の分散性である。日本の宿泊業は中小企業比率が非常に高く、家族経営の施設も多い。地域ごとに市場が分断されており、ブランド形成や人材教育の仕組みが作りにくい。
日本の宿泊施設の多くは客室数100室未満であり、世界の大手ホテルチェーンのような統一ブランドや共通教育、国際的な人材市場を形成することが難しい。この構造は地域の多様性を支える一方で、価格競争を生みやすく、産業全体の収益力を引き上げにくいという問題を抱えている。
ここで参考になるのが、世界の国際ホテルブランドの経営モデルである。例えば Marriott International や Hilton のような企業は、価格、ブランド、人材投資を切り離さずに設計している。需要に応じて客室価格を調整する収益管理によってトップライン(売上)を引き上げ、その収益力を背景に人材教育や賃金水準を維持・改善する。価格が上がり、人材投資が進み、サービス品質が向上し、さらに価格が上がるという循環が成立しているのである。
もちろん、このモデルをそのまま日本に適用する必要はない。しかし重要なのは、賃金を余剰の分配ではなく競争力を生む投資として設計するという発想である。稼働率を無理に上げることではなく、単価、滞在価値、需要の平準化という三つの軸で付加価値を高めることが重要である。
需要の強い局面では価格を取り切り、連泊や長時間滞在によって一人当たりの付加価値を高め、繁閑差を緩和することで安定した収益構造を作る。こうした設計ができれば、賃金倍増は決して非現実的な目標ではない。
DXは省人化ではなく「賃金原資を生む装置」
賃金引き上げを支えるもう一つの鍵がDXだ。ただし、DXを単なる省人化として捉えるのは誤りである。目的は「人手制約の中でも高い付加価値を生む」ことにある。需要予測と連動した価格運用、シフトや清掃の最適化、モバイルチェックインやセルフオーダーなどは、同じ人数でより高い単価を取るための仕組みだ。
DXによって生まれた余力や増収分を、どこに配分するか。日本の観光産業は、増益分を内部留保に回し、賃金は賞与で調整する傾向があるが、これが要因の一つであった。人手不足時代において、賞与では採用競争に勝てない。必要なのは、基本給を引き上げるという明確なコミットメントである。
結局のところ、賃金を上げられるかどうかは、経営の配分ルールとガバナンスの問題に行き着く。増収分の一定割合を基本給原資に充てると決める。現場の運営責任者に、価格と人件費の裁量を与える。その代わり、単価、人時生産性、平均年収、離職率といったKPIで統治する。こうした仕組みがなければ、どれほど需要が伸びても賃金は上がらない。
リスク対応をどう考えるか
観光産業の賃金引き上げを論じる際、必ずと言ってよいほど出てくる反論がある。「コロナや自然災害のような需要急減がある以上、固定費である賃金は簡単に上げられない」というものだ。
確かに、観光は外生ショックに弱い産業であり、パンデミック時には需要が一気に蒸発した。高い固定費を抱えた企業ほど打撃が大きかったのも事実である。この意味で、賃金引き上げに慎重になる経営者の感覚には一定の合理性がある。
しかし、この主張は一見もっともらしく聞こえる一方で、論点を取り違えている。問題は「需要急減が起こり得ること」ではなく、それを理由に平時の賃金水準を恒常的に抑え続けることが本当に合理的な経営判断なのかという点にある。
