共通項は「二刀流の生みの親」
三木ら取材班は「投打二刀流」の選手発掘を巡る三原と栗山の奇しき因縁にもたどり着く。
三原は近鉄(現オリックス)の監督に就任した1968年、投打の二刀流の名選手を育てたことでも知られる。社会人の東芝から投手として近鉄に入団した佐賀県出身の永淵洋三である。
春季キャンプで永淵の打撃練習を目にした三原は「タイミングの取り方が抜群にうまい」と直感。永淵に打者としての練習を命じた。永淵は1年目から二刀流で公式戦に出場、外野手で先発出場し、ピンチでマウンドに上がり、再び外野へという三原流奇策の実演者となった。
日本ハムの監督として、周囲の反対を押し切り、大谷翔平を投打の二刀流で育てた栗山には「常識を捨てよ」という三原の教えが根っこにあったと思えてならない。
三原の代名詞のように言われる「マジック」について、栗山はこんなことを言っている。
<「マジックというよりも、マジックの裏側には実は根拠や確信があるんじゃないかと思うので。人が気付いていない絶対的な数字や確信、そこを見逃さないように」>(同書221頁)
他の人からは「奇策」に映っても、当人にとっては根拠のある「当たり前のこと」を「当たり前に」やっているに過ぎない。大谷翔平の「二刀流」も栗山には奇抜な思い付きではない。他の選択肢はなかったという。
<「普通に考えたら、どっちかにしたくなっちゃうじゃないですか。でもこれ、誰がどっちかやめろって言えるんだろうって、誰も言えないと思いましたもん、正直。日本のエースになるかもしれないし、日本の4番バッターになるかもしれない。その可能性を本当にあると思ってたから、絶対やめさせらない」>(同書129頁)
迷いを振り切った源田の精神力
三原ノートの「精神訓練」は最後に野球と「迷い」について書いているが、栗山もWBCの戦いの中で、何度も迷う場面に遭遇した。とりわけ悩んだのは1次ラウンド韓国戦で右手小指を骨折した源田壮亮(西武)の処遇だった。
守備力を買い、侍メンバーの選考で栗山が最初に選んだのが源田だった。その源田をケガで欠くことは構想全体の見直しにつながる。栗山は1次ラウンド終了後の休日練習に参加した源田との会話を自身のメモに残している。
<この日はチーム全体が完全休養となったが、復帰を目指す源田は練習を希望した。指が折れているにもかかわらず。「とにかく出来ます」と。なんでこんなに強いのかといえば、「これまでずっとジャパンに選ばれても勇人さん(坂本、巨人)がいて、なかなか試合に出ることが出来なかった。だからこのジャパンだけはと心に決めて今回だけはやってきたんです」。このあたりで源田壮亮が号泣した>(同書285~286頁)。
