三原は「勝つための集団は情の采配を排除せねばならない。これが勝利の原則である」と教えている一方で、勝敗を左右する「有利」「不利」を克服するのは精神力、とも書いている。
源田をチームに残したのは、「情に流された」のではなく、WBCに賭けた源田の決死の思いと「精神力」に栗山が賭けたともいえる。源田は故障直後の1次ラウンド2試合を欠場したが、準々決勝のイタリア戦から決勝の米国戦まで遊撃手としてフル出場し、貴重なタイムリーを放つなど打撃面でも世界一に貢献した。「迷い」を破った末の「進歩」だった。
もう一人の「名将」が見た栗山
栗山が三原に心酔していることを快く思っていなかった、もう一人の「名将」についても書いておきたい。栗山がヤクルトでの現役時代、最後に仕えた野村克也だ。
2人が同じユニホームを着ていたのは1990年のわずか1シーズンだが、ヤクルトの「ぬるま湯体質一掃」を掲げた野村監督の目に、目の病気で休みがちの栗山は戦力として期待していなかったようだ。若手にポジションを奪われた栗山は90年限りで現役引退。評論家、スポーツキャスターとして活躍の場を移していった。
11年オフ、栗山は日本ハムの監督として球界に復帰し、翌年、就任1年目にリーグ優勝という華々しい実績を残したのだが、かつての恩師は栗山に冷たかった。13年に出した著書『監督の器』(イースト新書)の中で野村は、「栗山で大丈夫か?」という項を立てて次のように評している。
<最近はどういう基準でプロ野球監督を選んでいるのだろうと首をかしげたくなることが多々ある。北海道日本ハムは昨年、評論家の栗山英樹を監督に据えた。私は栗山の監督就任の話を聞いたとき、正直言って「えっ、栗山で大丈夫か?」と思った。彼は監督どころかコーチの経験すらない。栗山は現役時代、ヤクルトで1年だけ私の下でプレーした経験がある。米国ユマキャンプで毎日1時間、ミーティングを通じて私の野球観、哲学を叩き込んだ。その時の経験を参考にしてくれればと期待したが、彼の言葉を聞く限り、それはなさそうだ。野村の「ノ」の字も出てこない。>
<彼は尊敬する監督として、長嶋茂雄や戦後の知将、三原脩さんの名前を挙げていた。私の影響はないと言いたかったのだろう。しかし、長嶋はともかく、一度も監督をしている姿を見たことのない、話をしたこともない三原さんの名前を挙げていたのは私には理解できなかった。栗山は日本ハム監督就任1年目でリーグ優勝を果たした。見事な成績と言えるが、監督としての評価はこれからだ。>(『監督の器』33~34頁)
ヤクルト監督時代、年賀状を送ってこなかった選手を冷遇したと伝わる野村である。栗山はたぶん年賀状を出していなかったのだろう。だが、栗山が野村の教えをしっかり受け継いでいたことを物語る証左もある。栗山が監督就任後最初に出した著書のタイトル『覚悟』は、現役最後の年、野村が教えた「覚悟に優る決断なし」の言葉からとったと同書のあとがきで書いている。
勉強家の栗山が三原を筆頭に多くの先達から野球のすべてを学ぼうと努力し、積み上げてきた研究の成果を実践の場で生かしたのが23年のWBCだった。栗山の足跡と、あと一歩で頂点を逃した井端の教訓を生かし、侍ジャパンが新たな指導者のもとで再び世界一に返り咲く日を楽しみに待ちたい。(文中敬称略)
