日本の固定観念とは異なる
フラットな思考の原点
翻って、日本──。我々の暮らす社会では、どのようにこの問題に向き合うべきなのだろうか。
「1956年の12月、日本の国連加盟案可決と共に、それまでの男女別倫理感の拘束から自由になりました。日本社会では、戦後の民主化によって、『イエ』という長老支配制度からの個人の解放と、国の復興・経済成長が進んだかにみえました。特に、男女平等理念の推進による女性の参政権、労働権、配偶者選択などに関する男女同権という〝言葉〟自体は、恋愛結婚・二世代家族という『近代家族』と共に定着していきました」(同氏)
その一方で、母性保護、母子保健など、生物学的性差を基底とした女性保護が続いていたと目黒氏は指摘する。
「男女平等になったようで、実は日本では経済成長を支える仕組みとしての『夫=稼ぎ手』『妻=主婦』という役割構造が、すっかり根付いてしまっていたのです」
大学卒業後、出版社で編集者として働いていた頃、目黒氏は日本社会に残るそうした価値観を実感する出来事に直面する。
「フランス文学で著名な大学教授のもとへ原稿を受け取りに行った際、開口一番に『君の会社には男の編集者はいないのか』と言われました。日本では女性というだけでこんな扱いを受けるのかと愕然としました」
当時の日本社会では〝当たり前〟になっていた女性の扱われ方に、目黒氏が疑問を抱いた背景には、ある原体験があった。それは56年、高校2年生の時に参加した米国でのユース・フォーラムだった。
米国の新聞社主催の国際交流プログラムに日本代表として参加し、ニューヨークへ渡った。
「大戦の記憶もまだ残る中、戦争の勝敗にかかわらず、世界各国の子どもたちが等しく招かれていることに驚きと懐の広さを感じました」と目黒氏は振り返る。
各国から集まった高校生たちは、それぞれ異なる歴史や背景を持ちながらも、対等な立場で議論を重ねていたという。
「当時の私は、日本が過去に何をしたのかほとんど知識がなく、アジアの参加者と話す中で、初めて〝歴史〟を知りました。それでも、『日本が好き』と言ってくれたり、個人として対等に接してくれました。〝敵国日本〟という態度をとる人はもちろんおらず、どちらが勝った、負けたではなくて、その経験をどう次に生かすか、そういう話をしていました」
立場の異なる人々が、一人の「人間」として対等に議論できることは、初めての海外で緊張していた目黒氏に安心感と勇気を与えたという。
こうした人種や性別を問わず、個人として対等に扱われた海外での経験は、帰国後の日本社会への違和感につながっていった。
「この社会を変える」
そう決意した目黒氏は、そのための武器として「女性学」や「ジェンダー学」の研究に励んだ。やがて98年以降、CSWの日本代表を13年間務めることになる。
しかし、WPSが採択された現在も、課題が解決されたわけではない。
「SDGs(持続可能な開発目標)では、目標5『ジェンダー』の実施レベルの低さも指摘されています。また、残念ながら日本ではWPSという言葉そのものも浸透しているとは言い難い状況です。ジェンダー主流化は、これからも日本にとって主要課題であり続けるでしょう」
