それ以降、今西は度々長崎に足を運ぶ。森保の「ひたむき」な姿も見えてきた。会話の時、森保は相手の目を食い入るように見つめてくる。今西は生前の取材にこう答えている。
<「当時は目上の人の話を聞くときに下を向く方が礼儀正しいという風潮があり、目を見て聞く選手は少なかった。でも森保は違った。意志の強さを感じました」>(同書67頁)。
同期6人の「ビリ」からスタート
87年4月、森保はマツダSCに入団した。無名選手の日本リーグ(Jリーグの前身)入りである。同期入団は6人。ただし、森保の評価は「ビリ」。6人のうち5人は親会社のマツダの社員で、森保は子会社のマツダ運輸の社員。初任給も他の5人より1万円少なかった。だが、ここからも森保得意の「逆転劇」が始まる。
今西と一緒に長崎で森保を見に来たオフトがその年から監督に就任したのも幸いした。
<オランダ人監督のサッカー理論は日本では馴染みがなく、高評価で入団した選手たちは適応に苦しんだ。森保とは違い、全国でも有名な高卒選手たち。彼らは自分のやり方に自信があり、オフトの考え方と摩擦が起きる。一方、「ビリ」の森保にはこだわるべき自己流などない。オランダ人監督の指示をすべて受け入れ、自分のものにしようとした>(69頁)
入社して2年間はトップチームの試合出場はゼロ。だが、3年目に初めて公式戦に出場すると、いきなり2得点1アシストの活躍を見せ、レギュラーに定着した。入社4年目の春にはチームの若手3選手と一緒に1カ月間のイングランド留学メンバーに選ばれた。英国ではスター軍団のマンチェスター・ユナイテッドの練習に加えてもらう貴重な経験もした。
森保は当時をこう回想している。<「トップチームの練習にも2度ほど参加させてもらったのだが、練習のアップで行うダイレクトなボール回しの際、ボールスピードに全くついていけなくて、ミスを連発。基本技術の差を痛感させられたりもした。とにかく、プロのサッカー選手とはどんなものかをまのあたりにした1カ月だった」>(95~96頁)
オフトと共にした「栄光」と「挫折」
森保の「強運ぶり」を物語る出来事が起きたのは社会人6年目の92年のことだ。マツダSCの監督を88年に退任し、オランダに戻っていたオフトが日本代表の監督に選任された。外国人として初めて日本代表を率いることになったオフトは、中盤のボランチとして森保を日本代表メンバーに初選出した。
代表監督の就任会見で、オフトが「私はW杯に日本を出場させるために監督に就任しました」と述べた時、会場から失笑が漏れた。だが、オフト率いる日本代表は92年夏のダイナスティカップ、同年秋のAFCアジアカップと、国外で開かれた大会で連続優勝、日本のサッカーファンは「オフト・マジック」に熱狂した。
こうして迎えた93年10月、カタール・ドーハで開かれたW杯米国大会アジア最終予選。イラクとの最終戦、後半ロスタイム突入時までW杯チケットを手にしながら同点ゴールを許し、オフトジャパンは悲願のW杯出場を逃した。試合終了の笛に、ピッチに倒れ込んだ日本イレブン。その中に森保もいた。
それまでの日本サッカーの歴史で、W杯に最も近づいた瞬間で、サッカーファンにとっても最高潮に盛り上がった瞬間でもあった。それだけに逃した魚は大きく、選手やファンの悔しさも尋常ではなかった。結果的に、森保が味わった悔しさは、その後の「逆転人生」の糧となったに違いない。
今回のW杯北中米大会で森保ジャパンは初戦でオフトの母国オランダと対戦する。森保はオランダ戦のチケットをオフトのために用意したという。さて見事に「恩返し」ができるか。
