天皇が代わるたびに都が動いた―― 飛鳥の宮都史
飛鳥に宮都が置かれたのは、推古天皇が即位した6世紀末が最初ではない。5世紀前半に在位した允恭天皇がすでに「遠飛鳥宮(とほつあすかのみや)」を営んでいたとされ、それ以降も複数の天皇が飛鳥に宮を構えた記録が残る。
注目すべきは、藤原京以前の宮都が、天皇の代替わりごとに場所を移していた点だ。崩御した天皇による「死の穢れ」を忌む風習があったとも、建築技術の問題があったとも言われるが、定説はない。いずれにせよ、この時代の「宮」はあくまで天皇個人の居所であり、後世の「都」とは根本的に性格が異なっていた。
694年、天武天皇の遺志を受けた持統天皇が藤原京へ遷都したことで、状況は一変する。持統・文武・元明の3代にわたって使われた藤原京は、日本で初めての本格的な都城であり、中国の律令制にならった計画都市だった。碁盤の目状に街路が整備され、多くの役人や商工人が暮らした。日本に「名実ともに都と呼べる場所」が誕生した瞬間である。
古墳から寺院へ―― 宗教的転換の最前線
飛鳥のもうひとつの顔は、宗教的変革の舞台だという点だ。石舞台古墳をはじめとする巨大古墳が集中する一方で、飛鳥には日本最古の本格的伽藍を持つ飛鳥寺が存在する。
飛鳥寺は、587年の「丁未(ていび)の乱」の後、蘇我馬子が発願して創建した寺院だ。一塔三金堂形式という伽藍配置は、高句麗の清岩里廃寺(せいがんりはいじ)や百済の王興寺と共通するもので、朝鮮半島からの影響を色濃く受けている。日本に仏教が公伝したのは6世紀なかばごろとされ(538年説が有力)、欽明天皇の時代に百済の聖明王から伝えられたのがその始まりとされる。
古墳という在来の宗教施設と、仏教寺院という外来の宗教施設が同じ土地に共存している――飛鳥はまさに、日本の精神的風土が塗り替えられた現場だった。その痕跡は、1400年以上を経た今も、地中と地表の両方に刻まれている。
高松塚・キトラ古墳が示す「国際都市・飛鳥」
1972(昭和47)年の高松塚古墳壁画の発見は、当時の日本に「飛鳥ブーム」をもたらした。直径約20メートルの円墳の石槨内壁には、玄武・青龍・白虎・朱雀の四神、男女群像、そして天井には金箔で描かれた星宿図が広がっていた。女子群像の服装は高句麗の古墳壁画との相似が指摘されており、7世紀末から8世紀初頭の飛鳥が、いかに東アジアの文化的影響を受けていたかを物語る。
同様の壁画を持つキトラ古墳とあわせて、これらは「壁画古墳」と呼ばれ、装飾古墳とは明確に区別される系譜に位置づけられる。被葬者は諸説あり確定していないが、当時の日本が単なる辺境ではなく、大陸・半島と活発に交流した「国際社会の一員」であったことを雄弁に示す存在だ。
