今回、見物客にけががなかったことも、この意味では重要である。祭りに加わっていない人を巻き込む危険こそ、最も許されないからである。
ただし、スターの考え方には早くから批判があった。「これまで受け入れられてきた」ことは、「受け入れるべき」ということを意味しない。300年続いてきたという事実は、それだけでは今後も続けてよい理由にはならないのである。
「自分で選んだ」は本当か
「自分で選んだのだから仕方がない」と言うためには、いくつかの条件が必要である。だんじりの場合、その条件が十分に満たされているとは言いにくい。
第1に、地域の圧力である。だんじりは町内会や青年団の単位で運営され、役割は仲間内で割り振られる。断る自由は形の上ではあっても、実際には断りにくいのではないか。
第2に、未成年の参加である。今回のけが人には10代も含まれていた。子どもや若者について、「危険を承知で自ら選んだ」と言えるかは別の問題である。
第3に、情報である。参加者は、これまでにどれくらいの人が大けがをし、命を落としているかを、数字で知らされていない。リスクの大きさを知らずに選んだことを、本当の意味で「選んだ」と呼べるかは疑わしい。
慣れた危険ほど小さく見える
人が危険をどう感じるかは、実際の被害の大きさだけでは決まらない。米国の心理学者ポール・スロヴィックらの研究によれば、人の感じ方は主に2つの要素に左右される。
1つは「恐ろしさ」である。自分では制御できない、一度に大勢が死ぬ、自分の意思と関係なく押しつけられる。こうした危険を人は強く恐れる。
もう1つは「わからなさ」である。目に見えない、影響が何年も後に現れる、科学的にもよくわかっていない。こうした危険も人は強く警戒する。
だんじりは、そのどちらにも当てはまらない。自分で参加し、昔からなじみがあり、自分たちで操っていると感じ、何が起きたかはすぐ目に見える。そのため、実際に命が失われていても、危険は軽く受け止められやすい。
食品添加物や農薬が、実際の危険の大きさ以上に恐れられるのとは、ちょうど逆である。「目に見えない化学物質」は過大に恐れられ、「見慣れた祭りの危険」は過小に見積もられる。私たちの危険の感じ方には、こうした偏りがある。
