帝政ロシアは、ラッコの毛皮を求めて千島列島を南下した。1798年、幕臣の最上徳内らが択捉島に「大日本恵登呂府」という標柱を建てた。
日本との交易を拒まれたロシア側はいら立ちを強めて、択捉島などを襲撃した(文化露寇、1806〜07年)。この場にいたのが間宮林蔵で、この後、半島だと考えられていた樺太が島であることを発見し、間宮海峡にその名を残した。
55年に日魯通好条約によって択捉島と得撫島との間が国境とされ、樺太の国境画定は先送りされたが、75年の樺太・千島交換条約で、日本は千島列島全島を、ロシアは樺太を領有した。1905年、日露戦争の結果、北緯50度以下を日本が領有することになった。
しかし、45年8月、ソ連軍が侵攻した。その後、日本は南樺太、千島列島(北方四島を含まず)を放棄した。
豊原
日本領だった当時、樺太庁が設置された。豊原市は現在、ユジノサハリンスクという名で、サハリン州の州都となっている。
真岡
不凍港として使用された真岡港。日本統治時代は、製紙工業の町としても栄えた。ソ連軍占領に際しては、9人の日本人女性が自決する悲劇「真岡郵便電信局事件」が起きた。現在の名はホルムスク。
大泊
大泊港は、稚内からの船が到着する玄関口であり、ここから鉄道に乗り換え、豊原へと向かった。江戸時代にも、久春古丹という名で松前藩の活動拠点が設置されていた。現在の名はコルサコフ。

