「安全である」は誰が決めるのか
事故後、主催者は「安全対策は十分だった」と説明した。この言葉には注意が必要である。米国の科学者ウィリアム・ローランスは1976年、「安全である」とは「その危険が受け入れられると判断されている」ことと定義した。
危険の大きさを測るのは科学の仕事であり、これを「リスク評価」と呼ぶ。リスクが大きい場合には、これを減らす手段を実施する。これを「リスク管理」と呼ぶ。
他方、そのリスクを受け入れるかどうかを決めるのは、価値判断の問題であり、社会の仕事である。「安全」という言葉は、しばしばこの2つを混同してしまう。
もしリスク管理が本当に十分だったのなら、この祭りは「十分に対策しても、ときに人が死ぬ行事」ということになる。この事実を地域が正面から受け止めて、その上で祭りを続けると決めるなら、筋は通る。だが、そのような手続きはあったのだろうか。事故の原因を調べる前に「十分だった」と言い切れば、改善の手がかりも失われる。
リスク研究者のバルーク・フィッシュホフらは、受け入れてよい危険の水準は、科学によって「発見」されるものではなく、社会によって「決定」されるものだと論じた。だからこそ、誰が、どのような手続きで「安全」を決めるのかが問われるのである。
では、どう考えればよいのか。参考になるのが、英国の安全衛生庁が行った、危険を「受け入れられない危険」、「我慢できる危険」、「受け入れられる危険」の3つに分ける方法だ。
ここで大切なのは「我慢できる危険」である。この危険は「喜んで受け入れられている」のではない。利益のために「我慢している」のであり、リスクを下げる手段が残っている限り、それを怠ることは許されない。
だんじりは高さ約4メートル、重さ約4トンある。これを引き回すリスクをゼロにはできない。速さ、重さ、群衆の熱気といった危険を生む要素が、そのまま祭りの魅力の中心だからである。
やりまわしの速度を半分にすれば安全にはなるだろうが、それはもう別の行事になってしまうだろう。だとすれば、だんじりを「我慢できる危険」として扱い、その利益を守りつつ、リスクを下げる努力を続けるのが筋である。
祭りの事故への対応
命が失われるリスクを抱えた祭りは多い。そのような3つの例を見ておきたい。
諏訪大社の御柱祭(長野県)
6年に一度、巨大な木を山から曳き出し、境内に立てる祭りである。死亡事故は68年以降、74年、86年、92年、10年と、ほぼ祭りのたびに起きてきた。10年には、木を立てる「建て御柱」の最中に柱を支えるワイヤーが切れ、乗っていた氏子3人が落下して2人が亡くなった。3人は命綱をつけていなかった。
16年には、命綱をつけていたにもかかわらず、それがはずれて、高さ約15メートルから氏子が転落して亡くなった。この事故の後、宮司が業務上過失致死の疑いで告発され、「神事の安全に誰が責任を負うのか」が議論になった。この例が教えるのは、安全の道具は必須であること、そしてこれを正しく使われなければ命は守れないことである。
明石市民夏まつりの歩道橋事故(兵庫県)
01年7月、花火大会の会場と最寄り駅を結ぶ歩道橋に見物客が殺到し、折り重なるように倒れて、子どもら11人が亡くなった。危険にさらされたのは、参加者ではなく見物客である。
刑事裁判では、市の担当者や警察、警備会社の関係者ら5人の有罪が確定した。民事裁判では、主催者の「自主警備」が原則だとする兵庫県警の主張が退けられた。
この例は、「自主管理」だけに安全を委ねることの限界を示している。だんじりも自主管理・自主警備を原則としてきたが、行政や警察がどこまで責任を分かち合うかは、改めて検討すべきだろう。
