2026年11月9日(月)

冷泉彰彦の「ニッポンよ、大志を抱け」

2026年11月9日

書道教育の課題――高校で初めて臨書では遅すぎる

 とはいえ、その教育の中身には課題が多い。小中学校の「書写」は国語科の一部であり、目的はあくまで「整った字を書くこと」に置かれている。古典の名品を手本に写す「臨書」に本格的に出会うのは、高校の芸術科で書道を選んだ生徒に限られる。音楽・美術などとの選択制のため、多くの生徒は王羲之も空海も知らないまま学校を終える。

学校教育では、書写だけではない書道の指導も求められる( yamasan/gettyimages)

 これはあまりにもったいない。中学校までに、名品を鑑賞し、その一部を臨書してみる初歩の体験を全員に保障したい。欧陽詢による『九成宮醴泉銘』の一字を写してみるだけでも、「字がうまい・へた」とは別次元の、線の質や造形の美しさに目が開かれるはずだ。

 そのためには、書写を国語の付属物ではなく小中高を通じた独立の柱として位置づけ、優れた指導者を集めて正課として力を入れることが欠かせない。書を日本人のアイデンティティに深く組み込むには、学校教育こそが最大の基盤となる。

「観る文化」の弱さ

 絵画ならば美術館に足を運び、音楽ならばコンサートに出かける。しかし書の展覧会を純粋に「鑑賞」目的で訪れる人は、出品者の関係者を除けば驚くほど少ない。「読めない」「分からない」という心理的な壁が大きいのだろう。

 皮肉なことに、書の造形美をいち早く「観る」対象として評価したのは海外だった。1950年代、森田子龍らの前衛書は米国の抽象表現主義の画家たちと響き合い、欧米の美術館でも紹介された。文字が読めない人々が、線そのものに芸術を見いだしたのである。

 書の鑑賞は、文字を読むことと同時に、線のリズムや墨の潤渇、余白の呼吸を味わうことでもある。釈文や現代語訳の掲示、筆の運びを映像で再現する展示など、「読めなくても楽しめる」工夫を美術館や展覧会は積極的に取り入れるべきだ。書く人を増やすことと同じくらい、観る人を増やすことが、市場と文化の両方を支える。

会派と段位――令和にそぐわない徒弟制

 書道界の構造にも目を向けたい。書の世界は多数の会派に分かれ、段位はそれぞれの団体が独自に認定している。ある会派で得た師範資格が、別の会派では通用しないことも珍しくない。

 会派の移籍には許可が必要で、その都度費用がかかる場合もある。師範の権威は強く、入選や昇段に人間関係が影響するとささやかれることもある。

 伝統の継承に師弟関係が果たしてきた役割は否定しない。しかし、こうした仕組みは外部から見れば閉鎖的で、既得権益に守られた世界と映りかねない。対等でフラットな関係を重んじる今の若い世代にとっては、入口の段階で敬遠される理由にもなる。

 必要なのは、誰もが気軽に参加でき、会派を超えて通用する開かれた仕組みだ。共通の基準による検定、所属を問わず応募できるオンライン公募展、単発で参加できるワークショップなどが整えば、ハードルは大きく下がるだろう。今回の登録を機に、書道界自身が改革の旗を振ってほしい。


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