そこで確かに1969年の地図をよく見ると、確かに中国側のいう通り、地図の通常の図幅を敢えてオーバーするかたちで、尖閣が福建からはるか沖合の島として示されている。
しかし、「明清の頃から釣魚島に主権を行使」し、「西洋も広く釣魚島という地名を知り」「台湾の一部分」であるのならば、何故最初からこの地図に「釣魚島」と記さないのか。国家測絵総局はどう見ても国家測絵総局であり、あくまで中国という国家の意志として「尖閣」と表記したのであろう。
近代国際法の論理からいえばこれを以て、日本側の「尖閣」が継続的に中国側にも認められていたと判断する。中国も日本も近代国際法にしたがって主権国家を営んでいる以上、中国もあくまで近代国際法の論理に従うべきであろう。
「海防範囲」「台湾の一部分」として
位置づけていたのか疑問
では実際のところ、中国側が掲げる「国際法理に基づく根拠」とは何か。野田佳彦政権による尖閣国有化の直後に中国が発した『釣魚島白書』によると、日清戦争で日本が台湾を領有する前の状況(すなわち、「台湾の一部分として釣魚島を利用・管理してきた状況」)は大略以下の通りだという。(ちなみに、台湾=中華民国外交部も概ね似た説明をする。興味をお持ちの方は公式HPからYou Tubeの日本語映像を閲覧出来る)
* 明清の地図や文献には「釣魚島」と記されたものが多数あるため、中国側こそいち早く「釣魚島」を発見し利用してきた。
* 明清が琉球を朝貢国として封じるために送った冊封使節の記録には、境界線として久米島の西に「黒水溝」(琉球トラフ)があり、その東の「黒水」と西の「滄水」は異なる海域として認識されていた。黒水溝こそ中国の境界であり、その内側にある釣魚島は中国の一部分である。
* 明清の頃から地図への記載を通じて、釣魚島は中国の海防範囲であった。
* とくに、釣魚島は台湾の一部分であった。日本渡航経験がある鄭舜功『日本一鑑』(1556)では、釣魚嶼を「小東」(台湾)の一部としている。林子平の『三国通覧図説』でも、釣魚島は琉球側ではなく中国側と同じ色に塗られている。
*西洋の地図には「釣魚嶼」という記述がある
これらの主張がその通りであるのか、歴史的文脈に即したものであるのかどうかについては、以下の研究が詳しい。
* 原田禹雄氏による、明・清から琉球への冊封使節記録の膨大な全訳と分析(そのハンディな成果として『尖閣諸島----冊封琉球使録を読む』榕樹書林、2006年がある)。
* 石井望氏による、漢文のみならず近現代の様々な資料を収集したうえでの詳細な考証(例えば、いしゐ のぞむ『尖閣反駁マニュアル百題』集広舎、2014年)。