青年が成長していくとは
TBSがこの作品を日曜劇場で手がけるのは、1980年以来二度目である。一話完結のドラマも1993年に制作している。それぞれが放映された時代相と、篤蔵の生き方は今回同様に重なり合うのだろう。
篤蔵が料理の修行を急ぐのは、妻の俊子が妊娠したこともある。婿養子先を飛び出した篤蔵と離縁するように、俊子の父親は迫る。
俊子は篤蔵の本心を確認しようと上京し、まさにそのときに身ごもっていることがわかるのである。
青年が社会の入り口に立ったときに、まず何をなすべきか。一人前になるためにはどんな心構えが必要なのか。青年が成長していくとはどのようなことなのだろうか。
さまざまな経験を自己の内面で結実しながら、成長していく「教養小説」というジャンルの永遠のテーマである。
洗い場係として料理をまったく教えてもらえない篤蔵は、宇佐美の机の引き出しから盗んだ料理について書かれた分厚いノートを懐に隠している。料理場に戻ってみると、そこには包丁を研ぐ宇佐美がいた。宇佐美は篤蔵を諭すのだった。
「教えないのは、学ばないからだ。傍で見ながら盗まなければ学べない。小さなことが大きな失敗につながる。鍋をうまく洗えないやつは料理がうまくならない。鍋を洗う。食器を磨く。包丁を研ぐ。それを続ける」
篤蔵は盗んだノートを宇佐美に差し出して、頭を大きく下げて謝る。そして、いつもの罰である下駄で蹴られるのを覚悟で目を強く閉じる。
宇佐美はいう。
「俺も若いころに同じようなことをやったので、蹴るわけにはいかない」と。
包丁を研ぐ音が響く。目を開けた篤蔵は、自分の下駄を両手に持つと思いっきり頭を殴り続けるのだった。
青春時代をくぐり抜けて、一人前になった経験のあるひとなら、転機となった瞬間はあるものである。その瞬間に気づいたひとは幸せである。年月を経て、気づいても遅くはない。