2024年4月19日(金)

この熱き人々

2015年11月3日

 「オーストラリアの海に潜ったときには、その透明度にびっくりしました。赤や黄色やブルーのサンゴ礁の海と、岩や海藻の伊豆の海とは全然違う。感動しましたけれど、そのころはミュージカルやストリートプレイなど演劇のほうに興味がありました」

 放浪の4年間は瞬く間に過ぎ、希望の就職先は外国に行ける仕事。すぐに外国に行けそうなヤオハン・インターナショナルに入社したものの、インターナショナルのはずが、なぜか配属先は愛知県の半田支店。

 「名古屋市の法人向けの外商担当でした。商品の説明に来るさまざまな職人さんたちと接しているうちに、自分を賭けている世界をもっている人はカッコいいなあと思い、自分にとって一生を賭けられるものは何だろう、絶対に飽きないものは何だって考えたら、海だったんです。自分の求めるものはきっと海にあると気づいたら、知りたい、もっと知りたいって気持ちがあふれちゃって、海のスペシャリストになろうって決めました」

 伊豆の海から世界を巡って再び海に戻った結果、9千人の会社を辞め、潜水士を募集していた8人の水産会社へ。しかし水族館の水槽を掃除する潜水士のはずが、与えられた仕事はトラックの整備。そんな失意の日々に降ってわいたのが、会社に持ち込まれた東南アジアからの投資話の信ぴょう性調査の仕事だった。外国と英語と海が何となく絡んで指名された仕事だったが、行きがけの駄賃のようにシンガポールに立ち寄り、アポなしで水族館に突撃して、何と400万円分の魚の注文を取った。その功績で、トラック整備からペットショップに魚を手配する部署を新設。やっと海にまつわる仕事につき、年商2億5000万円の実績を上げた。が、会社で利益を上げることが主目的になると、大量受注、大量供給が近道。世界で珍しい魚など効率が悪い。このままでは自分の求めるスペシャリストにはなれそうもないと8年で退社。33歳でブルーコーナーという会社を興した。 

 「ペットショップに魚を卸す会社として始めましたが、水槽が二つしか買えなくて、子どもの給食費も払えないほど困窮してました」

 そんな折に、モナコでの水族館の世界会議への誘いのメールがきたのが、水族館への道の端緒となったという。

 「水族館の世界会議って何だろう?何で自分に?と驚きましたが、シンガポールで飛び込み営業した水族館の館長だった人が僕を推薦してくれたんです。この会議で、日々の生活のためにお金しか見えなくなっていた僕に『君は何年この仕事を続けていくつもりだ?』と信頼を築くことの大切さを気づかせてくれたアメリカのフィッシュサプライヤー、フォレスト・ヤングと出会うことができました。あの一言がその後の僕の指針になっています。海の生物を知りたいと思ってこの仕事を始めましたが、海に一生を賭けて生きている世界の人たちと知り合い、信頼の縁が広がっていくことが、この仕事の一番の魅力だと今では思っています」


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