エベレストの山頂に立った人はいるけれど、マリアナ海溝に人は立てない。宇宙ステーションに人が滞在し、ときには船外に出て作業できる宇宙よりも遠く謎の多いのが深海なのかもしれない。二年前、NHKがダイオウイカの泳ぐ姿を世界で初めて撮影した映像を放映して深海ブームが始まったと言われるが、この水族館のオープンはそのほぼ一年前だ。
「深海への関心が高まったのは追い風でしたが、それにしてもこんなにたくさんの人が来てくれたのは予想外でした。でも、死にもの狂いで来てもらえるよう考えたんですよ」
駿河湾は港から20分も船で行けば深海魚の漁場で、最深部は2,500メートルという日本一深い湾は、進化や生命を考えることができる貴重な財産。世界が注目する深海にコンセプトを定め、シーラカンス5体という目玉を取得。これでオンリーワンになれるし人は来てくれると自信の皮算用をしていたころ、ある人から全否定されたのだという。
「あんたにはストーリーがないって。ただすごいだろう、貴重なんだぞっていうオンリーワンじゃ、人なんか来てくれないって」
石垣に冷水をぶっかけたのは「よしもとおもしろ水族館」開設の折に知り合った、吉本興業側の総責任者だった比企啓之(ひきひろゆき)館長だった。
「水族館に魚が好きでやってくる人は10人に1人もいない。そのうえ死んでる魚をだれが見るんや、だれが感動するんやって。そんなもんアウトやって言われて頭にもきたし、ショックで落胆もしました。本当にアウトなら、もう僕の人生もアウトですから」
しかし、計画は進んでいる。アウトにしないためにはどうすればいいのか。目玉だと信じるシーラカンスを一度否定し、だれもシーラカンスにも深海にも興味はない、だからだれも見に来てくれないというところから、水族館構想を練り直すことに腹を決めたという。
何となく深海に魅力を感じているけれど、そもそも深海って、どこからが深海というのだろう。そんなことも曖昧なままふらりと立ち寄った9割の入館者にとっては、専門的な価値基準は提供側の思い込みにすぎず、むしろ距離を広げてしまう。