英国では半自動・自動式の銃だけでなく、いかなる拳銃も民間人が所有するのは禁じられている。それでも、パリ同時多発テロを受け、ロンドン警視庁が罪に問わないことを条件に違法銃の提出を呼びかけたところ、2週間でAK-47を含む25丁が回収された。シェンゲン圏には属しておらず、ドーバー海峡で欧州大陸とは隔てられている英国にも「抜け穴」は通じている。
銃50万丁が眠るボスニア・ヘルツェゴビナ
違法銃が欧州の闇市場に流れ込む主要ルートは、スロバキアのような「抜け穴」ではなく、バルカン半島だと大半の専門家やジャーナリストは指摘する。90年代に旧ユーゴスラビアの崩壊過程で起きた紛争のあと、600万丁の銃が闇に消えたと言われている。15年12月はボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)紛争を終結させたデイトン合意から20年。銃の管理は万全に行われているのだろうか。サラエボに足を運んだ。
ボスニアはボスニア人(イスラム教徒)、セルビア人(セルビア正教徒)、クロアチア人(カトリック教徒)の3民族で構成される。血で血を洗う3つ巴の紛争は92年3月、結婚式でセルビア人が殺され、その5週間後、ボスニア人とクロアチア人の女性2人が殺害されたことから火がついた。凄絶な「民族浄化」の末、95年8月、セルビア人勢力に対する北大西洋条約機構(NATO)軍の空爆が実施され、同年12月のデイトン合意で死者10万人、避難民200万人以上を出した紛争は終結した。
しかし20年が経った今も、ボスニア人とクロアチア人の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(面積51%)と、セルビア人の「セルビア人共和国」(同49%)という2つの「国家内国家」に分裂したままだ。それが和平と国家の体裁を保つ唯一の方法なのだ。
丘陵地と山に囲まれた12月のサラエボは濃い霧にすっぽり包まれていた。ボスニア人が多く、礼拝を呼びかける「アザーン」が夜明け前から聞こえてくる。メーンストリートには近代的な商業ビルがぽつりぽつりと建ち始め、中のフードコーナーでは若者たちが屈託のない笑みを浮かべている。「ニカーブ」と呼ばれる黒い衣装で全身を覆うムスリムの女性は1人か2人見かける程度で、普段はスカーフを着けない世俗化した女性が大半だ。高層住宅や民家の壁には銃撃戦の跡が残り、戦闘の激しさを思い起こさせる。
難民危機では、まだ処理が終わっていないボスニアの地雷原にシリアやアフガニスタンからの難民が間違って足を踏み入れないか、真剣に懸念された。数年前にはハンググライダー客が誤って地雷原に落下して爆発、負傷するという事故が起きている。ボスニア政府地雷対策センター(BHMAC)のスベトラナ・ルルドジアさん(35)は地図を指差しながら、「危険地帯の表示はあるとはいうものの、クロアチアとの国境地帯がとても危険です」と表情を曇らせた。地図を見ると、地雷が眠る危険地帯がアリの巣のように広がっていた。足をワイヤーに引っ掛けると空中に飛び上がって爆発、50メートルの範囲内で殺傷能力を持つ旧ユーゴスラビア製の地雷が一番危険だという。
紛争終結直後の96年には100万個以上の地雷が4200平方キロメートルに埋められていたが、現在ではそれぞれ10万個以上、1166平方キロメートルにまで減らした。しかし当時、民兵が埋めた地雷はどこにあるのかはっきりせず、撤去作業は難航している。