明日(2010年6月16日)、国会が閉会します。延長するかどうかで相当もめていましたが、その混乱のなか、亀井静香国民新党代表は、郵政改革法案が先送りされた責任を取り、閣僚を辞しました。
私は、亀井君がうらやましい。なぜなら、自分の考えを主張し、それが民主党に受け入れられなかった責任を取る、として大臣の職を辞するのは男らしいからです。私のような会社員の場合は、そうもいかないので、「金児昭のペコペコ哲学」でいくより仕方ないのです。亀井君は大臣を辞めても代議士ですが、会社員は「課長を辞めても社員のままでいられる」というわけにはなかなかいきません。
「高校同窓生からみた亀井静香氏」シリーズをこれまで書いてきて、もっとも嬉しかったのは、亀井君と私の同学年の渡辺蔚(わたなべ・しげる)君(2008年逝去)の奥様が、「これまで私が知らなかった主人のいろいろな面がわかって、とても嬉しかった」とおっしゃっていると、澤田信義さん(私のふるさと信越化学のシリコーン事業本部の方)から聞いたことでした。
渡辺君とは、このシリーズ第3回の「絆」で述べたように、小・中・高・大学生の間を通して、さらには社会人になってからも、彼は日本の草分けのコピーライターの会社、レマン社の創業社長として、私は信越化学のサラリーマンとして、計60数年間、淡い付き合いをしました。
かつて渡辺君の薫陶を受けた、今のレマン社社長の鵜野英二さんとの会話の中で、奥様がお気持ちをおっしゃったことを伝え聞いた澤田さんが、私に連絡してくれたのです。
渡辺君が私と亀井君に与えてくれた影響
亀井君のことをよく知っている人も知らない人も驚くのが、亀井君の趣味が、絵を描くことです。それもかなり年季が入っています。同じように、私の趣味が社交ダンスであることにも、皆さんビックリされます。
私たちがこのような趣味を持つようになった遠因は、渡辺君にあるのではないかと思っています。このシリーズの第4回で書いたように、渡辺君は文化・芸術に対して造詣の深い人物でした。亀井君も私も、その影響をほんの少しずつ知らず知らずのうちに受けたのではないかと思います。亀井君の意見を聞いてみたいものです。
ここで、社交ダンスで日本が変わり始めた例を挙げます。亀井君や私が通った東京都立大泉高校から徒歩5分のところにある、渡辺君や私が通った東京学芸大学附属大泉小学校では、運動会で5年生の生徒たちが「Shall we ダンス?」の真剣なステップを踏みました(2008年10月4日・担当は笠松具晃先生)。
実際の授業では(財)日本ボールルームダンス連盟のプロ講師が熱心にダンス指導を行ったのです。
たとえばの話ですが、日本の将来を担う若人のために、画家である亀井君にボールルームダンス連盟の顧問になってもらってはどうかと、私一人で、突拍子もない夢を見ています。
社交ダンスが私に幸せをくれた
私は日本経済新聞(2008年2月11日[建国の日=かつての紀元節])の「インタビュー・領空侵犯 “ときめく本能解放しよう――ダンスあってこその市民社会――”」で、人間には一番基本的な食欲の次に3つのことを求める本能、すなわち音、踊り、そして男女の接触があり、社交ダンスはこれらをすべて含む本能であると申しました。