しかし、国も含めてすべての関係者が、そのことを言わない。私も、学会でそういう発言をしているが、住民の前で言っているわけではない。私の発言が混乱を引き起こすだけのような気がして結局は逃げてしまい、ゼロリスクの呪縛から抜け出ることができなかった。そのことが、大勢の人が帰還できないという現実を作ってしまった。
ここに挙げた三つの例は、大きな関心を呼んだ環境、食品問題の例であるが、いずれも、「リスクはゼロ」であるべきという考えが、問題をこじらせ、多額な費用を発生させた。
そもそも、我々の生活でゼロリスクというものはない。道を歩いてもリスクはあり、通常使う電気も、それが作られ、運ばれてくるまでには、相当な環境リスクを発生させている。私たちは、こういうリスクをある程度覚悟しながら、その便益(ベネフィット)を使って生きている。
環境問題も同じはずだ。バランスをとる難しさは、外国でも同じはずなのに、BSEが荒れ狂った欧州でも、若齢牛も含む全頭検査は行われなかった。また、福島での除染を見た外国人研究者が、半分呆れかえり、「日本はお金があるから」と言って帰っていくのを見ていると、どうして欧米とこうも違うのかと考えてしまう。
私の見る限り、欧州と日本での一般国民の環境・安全問題に対する考え方はあまり違わない。しかし、明らかに、指導層の考え方が違う。日本の指導層の考え方が、環境問題に対して原理主義的である。公害問題の記憶と意識から抜け出ていないように見える。
公害の時代にはゼロリスクは有効な指針だった。しかし、今は違う。わが国の環境行政を支配している法律は、すべて、公害まっただ中の時にできたものである。これを見直す必要もあるのかもしれない。そうしなければ、意識も変わらないのではないのだろうか。ゼロリスク信仰が、環境問題をこじらせ、異常にお金のかかる事業を生み出している。福島で見る如く、ゼロリスク信仰は福島の復興を妨げている。もう一度、国を挙げてこの問題を考える必要がある。(本稿は執筆者個人の見解であり、所属する組織の見解ではない)
イラスト:RINA YOSHIOKA
現在発売中のWedge5月号では、以下の特集を組んでいます。
■特集「築地移転問題にみる日本の病巣」
・「ゼロリスク」の呪縛から逃れられない日本
・置き去りにされた「環境基準」の本当の意味
・再び政局に利用された築地 経済的合理性なき再整備案
・「築地市場はもう限界」 〝宙ぶらりん〟にされる仲卸業者の悲鳴
・〝玉突き事故〟の「環2問題」 東京五輪にも広がる悪影響
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