甲子園で行われる高校野球では、試合後に両チームの監督と選手がひとりずつ、インタビュー用のお立ち台に上がって報道陣の取材を受ける。今夏の第99回選手権大会でも、NHKなどのテレビ中継ですっかりお馴染みとなっている光景だ。そうした中、そのお立ち台に上がれない監督がいた。岐阜・大垣日大の阪口慶三(73歳)である。
阪口監督は甲子園で、愛知・東邦を率いて25勝、現在の大垣日大を指揮して12勝、計37勝(31回出場)を誇る高校球界の名将だ。奈良・天理との1回戦では兄・徹夫さんの孫・浩輝捕手(3年)が最後の打者として打席に立ち、珍しい大叔父と又甥の対決が実現したと話題になった。
0-6で敗れたその試合後、阪口監督はお立ち台に上がらず、どっかりと腰を下ろして取材に応じた。2011年に脊柱管狭窄症を患い、2度にわたる大手術を受け、段差を上り下りすることができなくなっているためだ。もう勇退する日も近いのではないかと感じた記者も少なくない中、独特のしゃがれ声で、阪口監督は言った。
「もういっぺん、ここ(甲子園)に来ます。(来春の)選抜を狙います」
まだやるつもりなのか。驚いたと同時に、納得もした。ああ、阪口さんらしいな、と。
阪口監督は、私が初めてインタビューした高校野球の監督である。1990年春の選抜の最中、解説者として甲子園に来ていたとき、甲子園の近くにあったホテルのラウンジで話を聞いた。当時は東邦の監督で、前年の89年春、自身初の優勝を果たしたばかり。今時では考えられないほど厳しい指導で知られ、「鬼の阪口」と異名を取っていたにもかかわらず、非常に優しく、丁寧な話しぶりだった。
その名将と久しぶりに再会したのは25年後の2015年、阪口監督が優勝した選抜決勝を題材にした拙著『失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち』(講談社)の取材のためだった。当然、阪口監督は四半世紀前に会った私のことなど忘れていたが、あの90年春、解説で甲子園を訪ねたことだけはよく覚えていた。
「なぜ覚えているかというと、解説をやったのは後にも先にも、あの一度きりだけだからです。甲子園は野球をやるところで、野球を見に行くところじゃない。ぼくはそう思っていたから、解説の仕事はずっと断っていたんだ。ただ、あの年だけは、優勝したら一度でいいから解説をやってくださいと、つきあいの長い人に前々から頼まれていたものでね」
阪口監督にそう言われたときは、不思議な縁を感じた。25年前、たった一度だけこの人に会っていたことが、『失われた甲子園』を書く動機のひとつでもあったからだ。
いったいいつまで監督を続けるのか。そう率直に尋ねると、阪口監督は言った。
「そうですね。負けて涙が出なくなったら、辞めにゃいかん。負けても悔しさが感じられなくなったらね」
ははあ、そろそろそういう心境になりつつあるのかと思ったら、違った。