破格の値段のビフテキ、ビフカツ
三正さんが説明を続ける。
「屋台は、兵庫大仏で有名な能福寺(のうふくじ)(兵庫区北逆瀬川町(きたさかせがわちょう))の前に出しました。昔は兵庫駅から東の岬まで続く能福寺の門前町が、一番の繁華街だったんです。大仏通り商店街といいまして。肉は自ら大八車を引いて、数キロ離れた長田町から仕入れたようです。ビフテキとビフカツをどちらも8銭で出していました。20対1の割合でビフカツが出たと聞いてます。その頃はまだガスはないので、家庭で揚げ物を作るのが難しかったからでしょう」
儀市氏の商才について感服している宏之さんが、後を継いで語る。
「神戸港はまるでゴールドラッシュのような賑わいで、たくさんの労働者が集まっていました。当時の屋台といえば、饂飩(うどん)と蕎麦が主流で、港で積荷の上げ下ろしなど肉体労働をする人にとっては、食べ応えに欠けると考えて肉にしたんでしょう。きちんとした店で牛肉料理を食べようとしたら、大金が必要でした。でも8銭なら、普通の人でも使える金額だったようです。調べてみましたら、屋台の饂飩と蕎麦の相場は3・5銭。その2倍ちょっとで肉が食べられたわけで、労働者がよく利用したのも理解できます。今でいえば『いきなり!ステーキ』のようなものなんでしょうね(笑)」
同じ8銭でも、ステーキを1枚注文されると1銭の赤字が、カツの注文なら1枚で1銭の黒字が出たという。ということは、肉はカツの方が小さかったということ? 宏之さんが苦笑しつつ続ける。
「牛肉は焼くと縮まりますが、カツですと衣がつくので生肉より大きく見えますから」
屋台の名は「恵比寿屋」で、赤い暖簾をかけた。当時、暖簾といえば白か濃紺ばかり。赤は褌(ふんどし)のようで下品だと避けられていたが、儀市氏は目立つことを優先した。客は屋号ではなく「赤のれん」と呼んだというから、それほどまでに珍しい暖簾だったわけだ。時をおかず、屋号を通称に合わせた。