8月15日、全米で最古参の新聞であるボストン・グローブが社説で、全米の新聞が連帯してメディアの危機に対応しようと呼びかけた。ドナルド・トランプ大統領は「メディアはアメリカ国民の敵」であるとか、伝統的メディアはフェイク・ニュースばかりだという批判を繰り返し、既存メディアに圧力をかけている。それに対し、メディアが団結してプレスの自由を守ろうというのがその趣旨であり、翌16日、全米で約350のニュース組織が呼びかけに応じた。ワシントン・ポストやウォールストリート・ジャーナルはそのような趣旨の社説を掲載しなかったものの、関連する署名入りの記事は掲載している。アメリカの伝統的メディアは独立性を強調する傾向が強く、互いに協力することに対する拒否感が強いことを考えると、多くのメディアが呼びかけに応えたのは注目に値する。
民主政治を意味あるものとする上で、言論の自由やプレスの自由が重要であることは論を俟たない(プレスの自由という場合、単に報道の自由のみならず、出版・取材・編集の自由も含む)。民主政治は、単に国民が代表を選挙で選ぶというだけでは不十分で、政府に対して公的に異議申し立てを行う自由を持つことが必要である。そのためには、言論の自由とプレスの自由は不可欠である。
時に「第4の権力」と呼ばれる
メディアの影響力
アメリカの建国者は、大統領がヨーロッパの君主のようにならないようにするために、様々な工夫をした。まず、大統領自身が圧政を布いてはならないという自覚を持つためにも、利己心ではなく公徳心を持って行動することが重要だということが強調された。だが、個人の倫理や規範に期待するだけでは十分でないとの認識に基づき、ジェイムズ・マディソンら建国者たちは、合衆国憲法で様々な制度的な工夫を行った。そこで作り出された制度が権力分立と呼ばれるもので、そこでは2つの異なる形で大統領職に対する制度的制約が課された。一つはいわゆる三権分立で、大統領、連邦議会、裁判所という三つの機構を分立させて、行政権、立法権、司法権を分有させ、大統領の行動を抑制させた。もう一つが連邦制であり、州政府が連邦政府の行動を抑制できるようにした。
だが、それだけでは権力者の暴走を防ぐうえで不十分ではないかとの疑念が出され、そこで付け加えられたのが、しばしば権利章典とも呼ばれる、合衆国憲法の修正第1条から第10条だった。その第1条で定められているのが、言論とプレスの自由である。
メディアは、時に第4の権力と呼ばれるほどの影響力を持つ。メディアの報道が株価を変動させたり、社会の分断を招いたりすることもある。政治との関係でいえば、メディアによる報道には反政府的、とりわけ、反大統領的なバイアスがかかっていることが多い。メディアは公的機関ではなく営利団体であり、視聴率や購読者数を増大させるためには、耳目を集める必要がある。今日も政治家と役人が真面目に働きました、という記事は読者の関心を集めない。稀にしか起こらない悪いこと、突発的な事件の方が注目を集めるので、報道されやすくなる(犬が人を噛んでも記事にならないが、人が犬を噛むと記事になる)。また、全体で435人もいる連邦下院議員について報道するのは容易ではない。大統領のように目立つ人に注目が集まるのも当然だろう。
これらの結果、メディアによる報道は、人々の政治不信、とりわけ大統領に対する疑念を生む可能性を秘めている。報道されるのは稀にしか起こらない悪い出来事が中心だが、悪い事ばかりが報道される結果として、政治不信が醸成される可能性がある。大統領に注目が集まるということは、メディアに取り上げてもらいたいと考える人にとっては大統領に対して激しい批判をすることが有効な戦略になることを意味するので、大統領にとっては心外なことも多いだろう。報道により、人々の間での政治不信、エリート不信が生まれる可能性が高くなるのである(これは、国民の側にメディア・リテラシーが求められる所以でもある)。