「同一労働同一賃金」が格差を生むワケ
労働市場に絡んでもっともデリケートな問題は、「格差」である。日本社会は全般的に、格差に対して決して寛容ではない。格差すなわち悪という基調は甚だ明らかだ。
格差をなくすという意味において、しばしば「同一労働同一賃金」の原則が持ち上げられる。しかし、その出自をよく調べると、正確には「同一価値労働同一報酬」と記載されていたことに気付くはずだ(国際労働機関(ILO)1951年の同一報酬条約(第100号)第1条(b)項) 。
「同一価値労働」の評価基準は、何であろうか。たとえば、同じ役職の課長で、同一大学を出て同期入社した営業1課の田中課長と営業2課の中村課長がいるとしよう。これを基準に田中さんと中村さんに同じ給料を払っていいのか。同一職位からは必ず同一価値の労働成果が生まれるかというと、実際に見てみないと分からないのだ。
田中さんは外交的な人で営業に長けていてリーダーシップも素晴らしく、営業1課はつねにトップ業績を上げているものの、中村さんはどちらかというと、内気な人でどうも営業に弱く、彼が率いる営業2課の業績は振るわず社内の最下位になった。
ここで業績という価値を基準にすれば、田中さんと中村さんに同一賃金を払っていたら、それは「同一価値労働同一賃金」の原則に反することになる。つまり田中さんと中村さんに賃金の格差をつけなければならなくなるということだ。
このような場面に対処するのは大変難しい。「まあそうは言っても、中村さんも頑張ったんだから、差をつけられたら可哀想だ」という温情が入ると、原則に反して「平等」な賃金報酬が2人に払われることになってしまう。
一方で、もし上司が心を鬼にして「同一価値労働同一賃金」の原則を厳格に運用すれば、間違いなく田中さんと中村さんの間に賃金の格差が生じることになる。労働の価値をどのように正確に評価するかという実務は大変複雑で、ここでは一旦これを棚上げにして、「格差」にフォーカスしてみたい。結果論として生まれる格差をどう考えるべきか、まさに日本人が逃げたくなるようなシリアスなテーマである。
労働市場改革の最終的結果としては、少なくとも今以上の格差が生まれることはほぼ間違いないだろう。この格差は各企業内にも企業間にも生まれ、ひいては日本社会全体において格差は今よりも鮮明な形になるだろう。日本人ははたして、この種の格差を受け入れるための心の準備ができているのかと問われている。
この問題をまず解決しなければ、議論はいつまでも上辺にとどまって本質的に先へ進まない。