今回はW杯には1991年の第2回大会から第4回大会に出場経験のある元7人制ラグビー日本代表監督であり、現専修大学監督である村田亙さんにお話を聞きました。
村田亙さんといえばスピードと俊敏性を生かした超攻撃的なスクラムハーフとして名を馳せ、日本人初のプロ選手としてフランスでプレー。帰国後40歳まで現役として活躍し、最後まで攻撃的なスタイルでファンを魅了し続けた名選手です。
出場されたW杯3大会の中で一番記憶に残っている試合は? という質問に「いろいろな意味で1991年の第2回大会のスコットランド戦です」と即答されました。ご自身の可能性を知ったというその試合を振り返っていただくことからスタートしました。
開催期間 1991年10月3日~11月2日
開催地 イングランドを中心にスコットランド、アイルランド、ウェールズ、フランスがホスト
日本代表 宿澤広朗監督 平尾誠二主将
日本代表はPool 2
「日本 9 – 47 スコットランド」
「日本 16 - 32 アイルランド」
「日本 52 – 8 ジンバブエ」(W杯初勝利)
人生を変えた一戦
「意外性に賭けたい」という監督の言葉
村田:会場は敵地ともいえるエディンバラのマレーフィールド・スタジアムでした。熱気溢れる満員のスタジアムと当時の日本では考えられないような踝まで沈むふかふかの芝生。そのうえ、当時の私は日本代表に1試合しか出場した経験がなく、すべてが初めてのことばかりでした。
その私に宿澤広朗監督は「村田の意外性に賭けたい」と仰って、起用されました。
――スコッドランドはその前年の5カ国対抗戦でグランドスラムを達成したヨーロッパ最強国です。その試合に経験の浅い村田さんを起用するのはかなりの冒険だったのではないでしょうか。
村田:当時の日本代表には同じポジションに堀越正巳選手というライバルがいて、彼はパスワークに優れた選手で、私はボールを持って自分で走るタイプですから対照的な存在でした。
日本代表としての出場機会は彼の方が多かったので、その分、私のことはノーマークだろうと。そこでスコットランド戦は、「攻撃的な村田の意外性に賭けたい。思う存分相手をかく乱してこい」という指示になったのでしょう。
相手はタレント揃いですが、試合は前半まではそこそこ、後半になってじわじわと押されてディフェンスばかりになって、試合後に身体を見たら痣だらけになっていました。そんなになることも初めてでしたし、それだけ激しい試合だったということです。
――チームとしては大差ですが、選手として個人的にはどんな評価をされているのですか?
村田:2戦目、3戦目は勝てる可能性が高いという理由から、優れたパスワークを生かして試合を組み立てたいと堀越選手が選ばれました。
ですが現地のメディアからは、日本はなぜキックをしたり、ボールを持って大きく動かすスクラムハーフを出さないのかという書かれ方をされましたし、第1戦を見た海外のクラブからオファーが来ていたことも宿澤監督からお聞きしました。
チームとしては大敗しましたが、個人的にはスピード面でもスキル面でもしっかり戦えていましたし、外国人の中にあっても十分勝負できると感じていました。
このスコットランド戦は私の目を海外に向けさせるきっかけとなり、人生を変えた一戦と言えるほどの重みのあるものです。