すべてはモノクロ、 音の無い世界
1995年W杯オールブラックス戦
――本コラムのスタートに当たり、ラグビージャーナリストの村上晃一さんとラグビーマガジン編集長の田村一博さんの対談を行ったことがあります(過去記事参照)。その中で2015年のW杯南アフリカ戦の勝利も含め、現在の日本ラグビーは1995年第3回W杯の「日本17-145オールブラックス」に原点があるというお話がありました。
村田さんはそのオールブラックス戦に出場されています。日本ラグビーの分岐点となった試合を振り返って下さい。
開催期間 1995年5月25日~6月24日
開催地 南アフリカ
日本代表 小藪 修監督 薫田 真広主将
日本代表はPool C
「日本 10 – 57 ウェールズ」
「日本 28 – 50 アイルランド」
「日本 17 – 145 ニュージーランド(オールブラックス)」
村田:個人的には、第2回のW杯後に肩の脱臼が続き、1994年に手術を行ってギリギリ第3回大会に間に合った、という大会でした。
ですが、当時の日本代表はライバルの堀越正巳選手と故平尾誠二さんのハーフ団(9番・10番)の組み合わせが固く、私の入る余地はないのかなと思っていたところ、「ハーフ団を変えるから、お前たちで積極的に仕掛けろ。思い切ってやってこい」と小藪修監督に背中を押され、私と広瀬佳司選手が指名されハーフ団を組みました。
我々にとっては千載一遇の大チャンスです。オールブラックスと戦えるわけですから奮い立ちました。でも、そんな気持ちも最初の5分間だけです。そのあとの75分間は目の前の光景がカラーからモノクロに変わり、耳には何も入ってこない音の無い世界になりました。多分、パニック状態だったのだと思います。
気づいたときは145点取られて試合が終わっていました。
自分たちはどうして世界とこんなに差があるんだという悔しい思いでいっぱいでした。
――村田さん個人としては、この経験からどのような学びを得ることができましたか?
村田:これ以上ないというひどい敗戦です。それまで個人的には「負けた」という記憶というか経験がなかったのですが、あの試合ではこれ以上ないくらいに落ち込んで自信を失い、日本にも帰れないと思いましたし、人の目が怖くなりました。試合のビデオを観て振り返ることもできませんでした。
でも、落ち込むだけ落ち込むと人間は上を向くものです。帰国して1カ月くらいすると、立ち直らなきゃいけないと強い気持ちが湧いて、ビデオで振り返ってみようと思えるようになりました。
すると、モノクロに見えていた光景が変わりました。試合は大敗ですが、自分のプレーだけを見れば密集サイドは抜けているし、スピードもあるし、個人的ミスも少なく、自分の持っている強みは生かせていることに気づきました。
チームと個人のパフォーマンスを切り分けて振り返ることによって、見えていなかったことも見えてきたのです。そこからですね、あの試合をポジティブにとらえることができるようになったのは。
あの試合以降、今まで以上に強い日本代表になりたいという気持ちが強くなって、個人的にもメンタル面が強くなっていきました。
歴史的大敗を生んだ要因
――日本代表としての観点から振り返っていただけますか。
村田:当時の日本代表にはW杯出場にあたり、具体的に積み上げた戦略・戦術というものがなく、フォワードがタテに2回入ったらバックスに展開するという基本的な考えがあったくらいで、「日本代表の強みで相手の弱みを突き崩す」というような考え方も戦術も持っていませんでした。
それに日本代表が一つになれていないというか、W杯に臨むという体制も気構えもできていませんでした。それが第2回大会の宿澤ジャパンとの大きな違いです。
出場する選手たちは死力を尽くすわけですが、それはあくまでも個人であって日本代表としてチームの強さにはまとまっていなかったように思います。
第2回大会はジンバブエ戦で勝利して終わったという良い記憶があって、第3回W杯前はウェールズにもアイルランドにもいい勝負ができるんじゃないかとか、勝てるんじゃないかといった声もあがっていましたが、日本が考えているよりも世界の成長スピードが遥かに速かったということです。あの敗戦はひとえに日本代表の準備不足が招いたものです。