2024年12月22日(日)

Wedge REPORT

2019年3月7日

 年が明ける直前の12月中旬頃、私が住むバルセロナでは毎年ある世界的大会が開催される。U-12年代が対象となるこの大会には、FCバルセロナやレアル・マドリードをはじめとしたスペイン国内のプロクラブはもちろん、海外からもフランスのパリ・サンジェルマンやドイツのボルシア・ドルトムントなど、欧州を中心に数多くの世界的有名クラブの下部組織が参加する。

 クリスマスバケーション直前のイベント的大会なので、この大会に勝ったからといって特に何があるわけではないが、出場している選手たちは皆世界を代表するようなクラブのエムブレムを胸につけている。そのエムブレムを背負っている以上たとえ12歳だとしても負けることは許されない、という象徴のようなものだ。ピッチ上ではその誇りをかけて選手も指導者も死に物狂いで闘う姿が見られる。

■全選手が出場しないのは日本のチームだけ?

 今年は日本からもいくつかチームが参加していて、そこで非常に気になる光景が見られた。

 この大会はレギュレーション上、バスケットボールのように選手交代が無制限で、一度交代で外に出た選手も再度ピッチに戻ってプレーすることが可能となる。そのためどのチームも選手が入れ替わり立ち替わりで交代していき、必ずベンチも含めた全選手が1試合中にプレーする時間を与えられていた。ただ唯一、日本のチームを除いて。

世界中どのクラブも選手を次々に交代させて全選手プレーさせていた(筆者撮影、以下同)

 試合では前述の通り各クラブは自らのエムブレムにかけて、目の前の相手に勝つために必死に、全力でプレーに挑んでいる。当然各チーム内で能力が他の選手に比べて抜きん出ている選手もいれば、少し劣る選手もいるというのは想像するに容易い。その中でも日本のチーム以外はどのチームも全選手を次々に交代させながら出場させていた。「そんなことは当たり前だ」というように。

 日本では試合に出ることができないのは選手が悪いという感覚が強く、選手の能力や努力が足りないのだと認識されることが多い。確かにその側面は間違ってはいない。出場メンバーに選ばれるということは決してお情けのプレゼントではなく、試合の出場時間に差が出るのはある意味当然のことだ。選手は皆平等ではない。

 だが断言する。試合に出場するということは、選手の育成において最も重要なことである。練習とはいわば試合のための準備、リハーサルだ。試合までの間、戦術、技術、フィジカル、メンタルすべての面からありとあらゆる準備をする。その準備したものを全力で発揮するのが試合の場であり、そこで準備してきたことを発揮して初めて、選手は何かを習得する。試合でやってみない限り、準備してきたものが本当に発揮できるのかどうかすらわからない。成功体験も失敗体験も得ることがない。

 準備してきたことは試合で成功することもあれば、当然失敗することもある。成功したならそれは新たな何かを習得した証拠だし、失敗したとしてもそこから次に成功させるためのポイントや別の方法を考え、再度トライすることができる。よってスペインの感覚で言えば、育成が主目的となる年代で、ピッチに立つことができないまま試合を終える選手がいるなど、「我々のクラブは選手を育成していません」と言っているのにも等しい。小学生年代ならなおさらだ。

 仮にそんなことがあれば、指導者は仕事も責任も果たしていないとみなされ、選手、保護者、クラブの上司等、各方面から激烈なクレームや非難を受けることになるだろう。事実、私も第一監督としてチームを率いていた時は選手の出場時間に関してはかなり神経を張った。毎週各選手が合計何分出場しているのか計算し、最低限の出場時間は確保するように管理した。それでもどこかからの文句は必ずある。選手やその保護者が自分に話し合いを要求してきたことなど、一度や二度のことではない。

 ちなみに今シーズン私が所属しているのは大人のカテゴリーだが、そこですら出場時間を巡るいざこざはある。先日も試合終了間際10分程度しか出ることができなかった選手が次の日の練習後、不満を露わにしながら我々スタッフに説明を求めてきた。それほど重要視されることなのだ。


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